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「先生って、結構、験を担ぐ人なんですね。意外……!」
すると先生は、真面目くさった顔のまま、単刀直入に、私にこう提案してきたのだ。
「怜奈、先生、って呼ぶのはもう止めないか。もうそういう関係じゃ、ないし」
「えっと……先生、下の名前、啓……ですっけ?」
それから私は急に戸惑い、フルーツティーの中に視線を落とす。図らずも先生を下の名前で呼んでしまったのが、どうしようもなく恥ずかしかった。数十秒の間を置いて、私は呟いた。
「うーん……、やっぱり、先生は私にとって先生、で……いきなりは……」
「難しいか。そりゃな、そうだわな」
「すみません」
「……おいおいな」
先生は気を悪くした様子もなく、頷いて、冷めかかったコーヒーをまたぐいっ、と啜る。そしてそれから、銀縁眼鏡のなかの目を細くして、にやりと笑った。
「まぁ、いいんだ。俺は怜奈と付き合えて嬉しいよ。なんせ、私をスキーに連れていって、と言われることは、絶対にないからな」
「……それが、先生の彼女の、絶対条件ですか?」
私は、ちょっとむくれて、そう聞き返す。
「ああ。……でも勿論、それだけじゃ、ないぞ。怜奈には怜奈の、いい面がもっとある」
先生は照れもなくそう言ってのけると、皿を持って席を立つ。そして、顔を真っ赤にした私を残して立ち上がると、フルーツの山の方へ、何度目かの歩を向けた。
「……まだ食べるんですかぁ? お腹壊しても知りませんよ!」
私は半ば呆れ、半ば照れ隠しに、大きな声で叫んだが、内心ではそんな先生が、かわいらしくて、愛しくて、仕方なかった。そんな私に、先生は振り向かぬまま、皿を持った手と反対の手を、ひらひら振ってみせる。私はまた、その先生の仕草に、笑った。
四月二日。語呂は悪いけど、良い日だな、と私は思った。きっと、私は、この日になると一生思い出すだろう。
新宿アルタ前の人混みを。むせかえる甘酸っぱい果物の匂いを。
そして先生の笑い顔を。
――願わくば、それを思い出す私の傍に、この人が、永く居てくれますように。
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