猫の言葉

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猫の言葉

 にゃー。と、小さい猫の声。移動用の小さなケージ内が大きく感じるほどの艶のある黒い毛並みの子猫。小さく鳴くその姿は、生きているということを実感させる。 「命の別状はなく、必要な処置は済ませています。ですが、子猫とはいえ治療費は安くありません。高岡さんが負担するには……」 「構いません。形はどうであれ、僕はこの子猫を飼うことを決めたので。妻が助けたこの子ですので、費用の方も僕が負います」  歩こうとする姿は愛らしく思う。健気で、鳴き声も甘く聞こえるほど。だが、事故の影響から後ろ足を引きずっていた。その痛々しい姿も、彼女を思い出す一つになるのかもしれない。 「足は直に回復するとは思われます。子猫だったので体力が不安でしたが、ここまで持ち直せば問題ないでしょう」 「ありがとうございます、この子を救ってくれて」  僕の言葉を聞いて、担当してくれた男性獣医師は少し複雑そうな顔をしていた。彼も、この子猫が運ばれて来た際にこちらの事情を知ったのだろう。だからこそ、彼は子猫を引き取ると言われたときに『ありがとうございます』とは口にできなかった。 「……気を使わせてしまってすいません」 「あ、いえ。こちらとしては引き取り手が見つかってくれることは喜ばしいことなのですが、事情を知ってしまった以上、ね……」 「僕は大丈夫です。決めたことなので。この子は、妻が文字通り身を挺して守ってくれましたから。勝手ですけど、形見みたいな存在なんです」  形見。そう表現していいのかはわからないが、今はそうしよう。この子猫と通して、妻を思い出し、欠けた人生を修復しようと決心した。そう決めきれたからこそ、僕は動くことが出来た。今の僕の原動力としては十分すぎる理由付けだ。 「困ったことがありましたら、いつでもご連絡ください。うちは時間外でも電話が通じますので、状況に応じて対応させていただきます。動物も人間と同じ命ですから、夜間でもお構いなく」  その言葉は頼もしい。病院のお世話にならないうちは健康体だが、生きている以上どこかで利用する。動物でも同じ環境を整えてくれているのなら、これ以上のことはない。  担当医にお礼を言い、子猫と一緒に動物病院を後にした。  ――家に着き、子猫が入っていた移動用のケージを降ろして扉を開けた。子猫の意志で動き、この空間が自分の住処であることを認識できるように、少し自由にしてみようと思ったからだ。 「にゃー」  ケージからゆっくりと顔を出し、こちらの顔を見て子猫が小さく鳴いた。怖がらせないようにと配慮しつつ、今はこの子が思うままにしよう。  後ろから子猫の様子を見続ける。ゆっくりと廊下を歩く子猫は、窓際の部屋に置いてある妻の小さな仏壇の前に敷いていた座布団の上で座った。  匂いには敏感かと思っていたが、線香が香る空間でも、嫌がる様子はない。  猫の目線でどう映っているかはわからない。けれど、まっすぐに妻の遺影を見つめる。静かに微笑む妻の顔を見つめる。 「にゃー」  また小さく鳴き、小さく丸まった。尻尾をわずかに振り、(まぶた)を閉じた。 「気に入った、のかな……」  ゆっくり近付くが、よっぽど落ち着いているのだろう、こちらが寄っても逃げる様子はない。  妻の遺影に手を合わす。住人の減った家に、新たな風が吹いた。  今日から、子猫との共同生活が始まる。  ――その日の夜、不思議な夢を見た。  あの日以来、夢を見なかった。夢を見た感覚もない。見てはいたけど、覚醒と同時に忘却の彼方に消えてしまったわけでなく、文字通り見なかった。  それは、心が疲弊していたから。理由はわからない。  あの日までは、割と夢を見ている方だと思う。内容は支離滅裂なことが多かったが、それでもなんとなく覚えていた。  だからこそ、夢を見なくなった数日は、とてもじゃないが寝た気がしなかった。  睡眠は、生き物にとって重要なプロセスであるはず。そして、夢は覚醒時の刺激として脳内に蓄積された情報を整理するための現象とも聞いたことがある。だからこそ、僕にとって『夢を見る』という行為そのものが睡眠の質を自覚するためには必要だった。  だからこそ、夢を見なかった数日は、とても苦痛だった。  そんな日が続いていたからだろうか。この日は、あの日以来初めて夢を見た。  何もない原っぱ。訪れたことのない場所だったが、夢の中の僕にはとても懐かしく感じた。故郷の光景、もしくは数十年前に訪れた秘境のような。  眩しいまでの眺望は、非現実的に感じられる。夢なのだからそうなのだが、夢だと認識しているのに、まるで現実のような矛盾した感覚が支配していた。  その中で、――彼女と出会った。  あの日の朝、最後に眼にした姿で。いつもどおりの涼しい顔で、艷やかな黒髪に軽くクセの入った髪質。ゆるく三編みにし、サイドテールにしてお気に入りのピンクのシュシュでまとめ、薄いオレンジのワンピースに白いカーディガン、黒のヒールと、僕がよく知っている彼女の姿だった。  その彼女が、何かを話している。けれど、風が強くて聞こえない。彼女の言葉をかき消した風は、どこへでも飛んでいく。こちらが聞こえないと叫んでも、それすらかき消して。  けれど、彼女は言葉をやめない。いたずらっ子のように微笑んでいる顔から、聞こえないこといいことに好き勝手言っているのかと邪推するほどだが、気付けば、彼女の足元に黒い毛並みの子猫が丸くなって寝転がっていた。  屈んで、やさしく子猫を撫でる左手に、キラリと指輪が光る。それを見て、彼女に近づこうと思ったが、いつの間にか僕と彼女の間には幅の広い川が流れていた。  渡れない。一歩で飛び越えるにはわずかに遠い。渡ろうとする行為自体が危険だと無意識が訴える。  彼女もその川に気付くと、寝転がった子猫を抱え、対岸までギリギリのところで立ち止まり、―― 「――この子を、お願いね。私だと思って」  その声だけが聞こえ、子猫をこちらに優しく投げた。投げられた子猫を落とさないように受け止めた瞬間に。  懐かしく感じた夢から覚めた。 「――にゃー」  突然訪れた覚醒に、枕元に座っていた子猫がこちらの頬を優しく叩く。 「あ。……ああ、おはよう」  目が合う。じっとこちらを見つめる青い目の黒猫。目が覚めたことを確認した後に、ベッドから降りて足を引きずりながら歩き、寝室のドアの下で座ってまたこちらを見つめてきた。こちらと見たかと思えば、今度はドアノブを凝視する。 「開けて、ほしいのか……?」  ベッドから降りて寝室のドアを開けると、ゆっくりと部屋をあとにして洗面室の方向へと廊下を歩いていった。まるで、早く起きて朝の準備を急かすように。  その後も、トイレ、キッチン、リビングと先導され、朝食を終えるまで監視をされるように見つめながら朝を過ごした。 「にゃ」
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