青天霹靂。

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

青天霹靂。

 何気ない日常で、つまらない理由で喧嘩してしまった彼女と再会したのは、暗い無機質な部屋だった。  担架のような簡易的なベッドに横たわり、寒さも暑さもしのげなそうな薄い白シーツを掛けられ、シャンプーの残り香をかき消すようなお香が充満する。  美容室の洗髪のように顔を隠した彼女は喋らない。寝息も聞こえず、呼吸に伴う胸の上下も見られない。  彼女との再会に立ち会った、薄青の服に丈の長い白衣を着た初老の男が、静かに言葉を紡いだ。 「助けることができずに、申し訳ない。スタッフ一同、最善を尽くしましたが――」  これが現実の言葉なのか、気を使って濁しても、なんとなくわかる。けど、この場面に立ち会うことになることはないと思っていた。  立場が逆だと。見届けられるのは、きっと僕の方だと思っていたのに。  彼女と最初に出会ったのは、まだ学生の時分だった。  地方大学の図書館の端で、静かにページを(めく)る仕草が、妙に眩しかった。  窓辺に座る、姿勢のキレイな女性はよく目立つ。時折、難しい表情を浮かべていたけど、集中して本に向かう彼女に、正直一目惚れしていたのだと思う。  しばらくして、同じゼミで面識を持ち、すごく緊張したことを覚えている。  教授と、大学院生が一人だけ、あとは僕と彼女だけの人気のないゼミであったが、充てがわれた席でも、暇を見つけては本を読んでいた。  汚れないようにか、表紙は白い紙のカバーがされていたからどんな本かはわからなかったけど、たまに何かのメモを直接書き込んで、また難しい顔をして、――そして何かを見つけたように眩しい笑顔を浮かべて、そんな彼女に惹かれていた。  ゼミで過ごす時間が長くなり、学生の時間が終わりを告げる。  先に就活を終えた僕と、ゆっくりと就職活動をしていた彼女が近付いたのは、ゼミ生が二人だけだったこともあって必然だったのかもしれない。  年を越して卒業が間近になった頃、彼女の就活がようやく終わったタイミングで、僕たちは付き合うことになった。  けれど、卒業が近付くということは、それに向けた準備があるわけで、学生カップルらしいデートにこぎつけたのも、卒業論文が片付き、残る行事は卒業式くらいしかない頃だった。  寒い空の下、紅葉も桜もない季節だけど、ゆっくりとした時間を過ごし、卒業してからは別々の職場に勤め、週末だけ共に過ごすことが多くなる。  三年ほどそんな生活が続き、互いに少し仕事に慣れた頃に結婚した。  それは幸せなことだったと思う。周囲の友人知人と比べると、早い方の結婚で、生涯の(つがい)とするにはやはり早すぎる判断だったのかもしれない。  結婚は人生の墓場だと、過去の人は言っただろうが、残念なことに僕と彼女の中ではそれはなかった。  平凡な人生だけど、小さなことでお互い笑い、しょうもないことで喧嘩して、また寄り添って、また日常を消化して、――それは幸せなことだったと、思う。  そんな生活に慣れた頃、それぞれ仕事にも一息がついたこともあり、夫婦として次の段階を目指すこととなった。  僕たち夫婦に足りないもの。普通に夫婦として過ごしているのならば、いて然るべき存在がいなかった。  どちらかに問題があったわけじゃない。意識して先延ばししていたわけじゃない。お互いに話し合って、そういう結論を出したわけじゃない。  単純に、夜の営みが少なすぎた。  朝も早いし、仕事も忙しく、せっかくの休みはそれぞれの時間に使ったり、デートをしたり、ゆっくりしたり、けれど、どちらも不器用だったからか、そういう事になる流れが少なかった。  不全でもないのに、中途半端なすれ違い(レス)でズルズルしていたことに気付いて、僕たちは決心した。  ――その決心が、遅すぎたのだと、一人になった時に津波の様に僕を押しつぶす。  僕たちの決断が遅かったのか、タイミングが悪かったのか、結果として、目の前で眠る彼女の存在が、僕の心を殴りつける。 「目撃者の話では、子猫を庇って――」  隣の人が何か言っている。雑音の様に聞こえるのは、僕の心のせいか、それとも薄暗い場所のせいか。どんな言葉もうまく聞き取れない。  外国の言葉のように、耳に音が入っても、うまく認識できない。  視界も(かす)み、頬が濡れる。意識だけが浮遊する感覚に溺れ、現実が溶けていく。  それが、――僕と妻の再会であり、別れだった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!