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①:会話
「そら、用務員さんだわね」
「何それ」
袋の中から上履きを取り出し、保健室のベッドに腰掛けながら足を突っ込んだ。立って、つま先をコンコンとつくと、踵側が結構きつい。無駄に成長を続ける自分の体に、ついため息が漏れ出てしまう。
「学校の物を修理してくれたり、運んでくれたり、他にも色々お手伝いしてくれる人よ」
「ふうん。何か、結構おじさんだったから、不審者かと思った」
「まあ、酷い言いぐさ」
首を傾けて、肩をすくめながら背を向ける。わざとらしい呆れのポーズはこの先生お決まりの動作だった。
そのまま流しに向かい、彼女は洗い物を始めた。カチャカチャと物音を立てて、コップやらピンセットやらを洗う後ろ姿は、何だか私を責めているようだ。居心地が悪い。
「……どうせ、性格悪いもん」
呟いた言葉は、強くシンクに打ち付ける流水の音でかき消されて、空間に響けず溶けた。
保健室の真ん中の大きなテーブルに鞄を置いて、中にある教科書や参考書を広げる。持ってきたのは、数学の問題集だ。一番苦手な分野である確率の演習を、今日は徹底的に進めていく。
準備を終えて、さあ始めようとペンを構えると私の前に、洗い物を終えた先生が腰掛けた。テーブルに肩肘をついて、こちらに顔を傾けながら流し目で私の手元を覗く。
「またこんなにバッチリ準備してきて……教室には今日も戻らないの?」
「……」
一番聞かれたくないことを聞かれて、体が固まる。普通こういうのってあまりズバズバと切り込まない物だと思うけど、この先生はそこのところルーズな感じがあって、私はそれが得意ではなかった。
黙っていたって無駄なのは百も承知だ。どうせすぐ追撃が来る。
ほら、もう口元が動いた。
「お友達も、心配してるんじゃない」
「私は裏切られたの。心配なんかしてる訳ない」
はぁっ、とため息をついて、これまたわざとらしく先生は首を落とす。それは、これでこのやり取りは終わりだ、というサインだと私は知っていた。
黙ってペンを持ち直し、参考書に集中するフリをする。フリ、だ。頭の中は、全然数式で埋め尽くされてなんかなくて、思い出すのは、私が保健室登校を始めるきっかけになったあの日のこと。
冷たく私を切り捨てたアイツらの声と表情が、今でもグルグルと記憶の中で淀んでいる。だから私は、絶対に教室になんか行かないし、行けないんだ。
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