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「あら、今日も来てくれたの」  縁側に座っていた、人の良さそうな老婆が微笑む。久山ツル。頭髪は雪のように真っ白で、たるんだ腹、腰も随分と曲がっている。目尻は弧を描いて下がっており、頬も重力に負けている。  私は無言で目を合わせ、返事をした。「おいで」と、その老婆が手招きする。 「クロちゃん、いい子だねえ。いつも同じ時間に来てくれるねえ。おばあちゃん、嬉しいよ」  そう言われて、外を見る。太陽が真上に昇っている。お昼時だ。老婆が言うように、先日もこの時間帯に来た。その前も、そのまた前も、更に前もだ。  ここ最近は、頻繁に訪れている。老婆に義理はない。昔からの長い付き合いでもない。ただ、たまたま老婆の家を訪れたところ、「クロちゃん」と勝手に名付けられ、気に入られた。私としては、特別名乗る気もなかったので、その呼称で呼ばれるたびに、一応反応することにしている。  そもそも「クロちゃん」というのは、老婆が昔飼っていた黒猫の名前らしい。仏壇には、すでに先立たれた人間の亭主と、先代の猫「クロちゃん」の遺影が飾られてある。以前、老婆はその黒猫の写真を私に見せながら、「あなたはクロちゃんにそっくりね。生まれ変わりかしら」と言ったことがある。  私としては、どこをどう見ても似ているとは思えないが、老婆にとっては「生き写し」とのことだ。たとえば、黒くてゴワゴワした毛や、鋭い目つき。時折、足が痛んで引き摺ること。無口なこと。いずれも他者から褒められる特徴ではないが、それでも老婆はそっくりだと言い、私を「クロちゃん」として歓迎してくれている。  老婆は、庭付きの大きな一軒家で独居生活を送っている。嫁に行った娘が一人居ると言っていたが、その姿を見たことはない。もしかしたら、遠くに住んでいるのかもしれない。  質素で、人付き合いの少ない生活を送っているらしい、孤独な年寄りだ。私以外の来客はない。それなのに、なぜかいつも私のために煮干しを用意してくれている。一度たりとも欠かしたことがない。  別に、こちらから煮干しを頼んだ覚えもない。ただ、先代の「クロちゃん」が好物だったから、私も好きなのだと思い込んでいるようだ。何度か、煮干しは好まないと意思表示をしたが、老婆には伝わらなかった。だから近頃は、黙って食べることにしている。  今日もテーブルの皿の上、こんもりと盛られた魚の干物を、私はつまむ。静かに茶を啜っている老婆の横顔を、何も言わずに見詰めながら。
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