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ネコちゃんとタチバナさん
「もしも~し。そちらの迷子の子猫ちゃん? お家はどこかな? 送ってくよ?」
そう声をかけられた瞬間、猫塚真恵の頭の中に有名な童謡が流れ始めた。
迷子の子猫が犬のお巡りさんに家をたずねられる、あの有名な曲だ。
ただ、真恵が見上げた先にいたのは、真っ白なスーツの……犬というよりは、狼のような雰囲気の男だった。
「…………」
「あれ? 喋れない?」
訳あって、深夜の路地裏で蹲っていた真恵は、一見してちゃらちゃらしたホストだと分かるスーツの男に声をかけられた。
あなたのおうちはどこですか、と。
しかし。
はて、子猫ちゃんとは。
真恵はホストを見上げた真顔のまま、脳内で首を傾げた。
真恵はけして小さくはない。どちらかといえば、大きいという形容詞がしっくりくる方だ。
友人いわく、脱がなくてもすごいのが分かるけれど、脱いだらもっとすごい、という肉体を持っている。
まぁ、今は毎日のルーティンである深夜の走り込みのために、比較的ゆったりとしたトレーニングウエアを着用していたし、蹲っていたゆえに、身体のラインや大きさなんてものが分かりにくかったのかもしれないが。
それにしても、わりと立派な肉体の成人男性である真恵を捕まえて「子猫ちゃん」とは。目の前のキラキラした頭の男の脳みそにはネジが数本足りないのではないだろうか。
真恵はコメカミを搔いた。
もしかして酩酊していて、真恵が華奢な人間にでも見えているのだろうか。
彼の職業も大変だな、と思う。
ホストというものは、楽に稼げるなんて思っている人間もいるが、来店した客の話を、客が満足するスタイルで聞かなければならないし、楽しませなければならないし、一円でも多く気持ちよくお金をつかわせなければならない。その為には見た目の美しさに加えて、多くのスキルが必要な職業だ。
真恵は己の筋肉との対話は得意だったが、他人とのコミュニケーション能力を母親の腹の中に置いてきてしまったような性格だった。
真恵は己の心身と会話し、己の世界を研ぎ澄ませていく競技の世界にいた。
ホストとは真逆の世界だ。
真恵は自分には到底できはしないとわかるものを、純粋に尊敬していた。
ホストというものは、生きているうちにすり減ってからっぽになった心を、いっぱいにしてやる立派な職業だと思う。
目の前の男はそういう職業なのだ。
「ねぇ~? こねこちゃーん? だいじょうぶ?」
「……あんた、俺のどこをどうみたら、小さい猫に見える?」
口をひらいた真恵に「あ、しゃべった」とホストが目を輝かせた。
「いやぁ。ケツの穴がまだちいさそうな、ネコちゃんかなあ、って」
あ。締りが良さそう、って意味だからね?
と、キラキラした繊維のシャツとキラキラした顔を無駄に光らせながら、ホストが笑う。
玉虫色みたいなシャツだな、と真恵は思った。
なるほど。彼がいう猫は、猫ではなかった。
ネコだ。
つまり、男性同士で体を繋ぐ行為をするときに、受け入れる側を指す言葉だ。
「俺は同性の恋人がいたことはない」
真恵がきっぱりと告げれば、玉虫色のシャツの男は目を見開いた。
キラキラしたカラーコンタクトレンズがこぼれてしまうかと思うくらいに。
「え~! そうなの? ラッキー。俺の手でネコちゃんにできるってことじゃーん」
そのポジティブな切り返しに、真恵は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「………………できない」
「なんで? なんでさ。俺のネコちゃんになろうよ」
「ならない」
「これも何かの縁っつーかさ。運命? ってやつじゃん?」
「縁でも運命でもない」
「えー。俺はビビッときちゃったけどなぁ。これが一目惚れってやつかー! 俺の一目惚れの初体験、猫ちゃんに奪われちゃったな~」
「俺はきてない」
「じゃあ今ビビッてきたことにしちゃいなよー! ほら、ビビーッ……いてっ!」
「いたっ!」
なあんちゃってぇ、と言いながら真恵の頬をつついてきたホスト男の指が、静電気でバチッと爆ぜた。
思わず互いに短い悲鳴をあげる。
「…………わあお。リアルにビリビリしちゃったね。やっぱ強烈な運命なんじゃない? 俺たち」
「……たかが静電気で運命がわかるなら世の中運命だらけだろ」
呆れたポジティブさに、真恵はため息をつくと立ち上がった。
ひとりきりで走り続けることに急に辛さを感じて、ふらついた体を何とかするためにこの場にいたが、もう大丈夫そうだった。
真恵は軽くその場でジャンプする。うん。いけそう。
「心配してくださってありがとうございました」と軽く会釈する。
「ちょちょちょちょ! まってよ! あんた名前なんつーの?!」
立ち去ろうとした真恵のトレーニングウエアの背中を、ホストが握りしめていた。
真恵は首だけで振り返る。
「…………」
「そんな嫌そうな顔しないで! 名前だけ! フルネームがダメなら苗字だけ! 苗字だけでも教えてよ!」
「………………猫塚」
「え?」
「だから猫塚」
早口に伝えれば、目の前のホストはアーモンドみたいな目玉を再びまん丸に見開いた。
つづいて、ゆっくり口角をあげていく。
「ふはっ! なんだ! やっぱ猫ちゃんじゃん!」
玉虫色にキラキラ輝く男が、満面の笑みで笑った。
「俺ね、橘。橘優星。猫ちゃんなら、大歓迎するから、またもし気分悪くなったら俺の店においでよ。ね? 猫ちゃんは俺の運命の人だから、特別に初回無料にしちゃう」
優星は流れるように差し出した名刺を真恵のウエアのポケットにねじ込むと、親指で真恵がもたれかかっていた壁を指さした。どうやら、この壁の店が彼の勤務先だったらしい。
「……裏側に番号書いてるから、連絡くれたらお迎えもいっちゃう。いつでも!」
「……いつでも……?」
「そう。いつでも!」
じゃあ、またね。とあっさり踵を返した優星の背中は無数のイルミネーションに負けないくらい、キラキラと輝いていた。
寧ろ全ての光は彼のためにあるような気がする。
「…………たちばな、さん」
さすがホストだ。
ものの数分で心を奪って去っていった。
真恵はポケットの中に爆弾を抱えているような気分になりながら、優星の去っていった方向とは真逆に走り出す。
真恵の運命がゆっくり回り出した音が、どこかで聞こえた気がした。
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