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あなたのおうちはここですよ
「もしも~し。そちらの猫ちゃん? あのさあ、まさかとは思うんだけど、ここで仮眠をとるのがルーティンだったりする? やめときな。風邪ひくよ? そしたら俺がうっかりシップ貼っちゃうかもね」
そう声をかけられた瞬間、猫塚真恵の頭の中には有名な童謡が流れ始めた。
名無しの権兵衛さんが、風邪をひいた赤ちゃんに慌ててシップを貼ってしまったという、あの有名な曲だ。
だかしかし、真恵が見上げた先に居たのは、虹色にきらめくスーツを着た……名無しの権兵衛ではなく……最近知り合ったばかりの橘優星というホストだった。
「…………橘、さん」
「おー! 覚えててくれたんだ~! 嬉しい~! でもさあ、猫ちゃんてば、あれからぜんぜん電話くれないんだもん。まじで猫属性だよねえ。おかげで俺すっっっっごく寂しかったんだから! だけど、まあいいや。そんなところも可愛いし、今夜また会えたから、いままでの寂しかった気持ちはチャラってことで」
訳あって、深夜の路地裏で蹲っていた真恵は、一見してホストだと分かるスーツの男に声をかけられた。
彼に会うのは、これで2度目になる。
同じ場所。同じ時間。同じ人物。
違うのは優星の服装と髪型くらいだ。
各種ネオンサインをキラキラと反射するスーツは虹色だと思っていたが、近くで見れば繊細なラメが施されたシルバーの生地だった。髪型も以前と違って額が大きく出るような前髪の分け目である。
初めて出会った時も狼のような人だと思ったが、今日もまた銀色の狼のようであった。
何を着ても、どんな髪型でも、優星だとすぐに分かる。なんでも自分の魅力に変換できてしまえるひとなのだと真恵は思った。
「……あんた、暇なんすか」
「そう見える? これでも店のNo.1なんだけど」
「…………」
「なぁに? その顔。嘘だと思ったでしょ~……ふはっ。正解。その通り~。ほんとうはね、No.1になる予定の男だよ」
そりゃそうだろう、と真恵は思う。
目の前で笑う男の笑顔は今まで見たどの人間よりも1番だったが、こんな営業時間の真っ只中にフラフラと店の外にいるホストが、その店で一番忙しい人物であるわけがない。
「それにしても店から出てきてラッキーだったなあ。やっぱ俺の第六感がビンビンにキテたのは間違いじゃなかったんだ。なんだか今日は猫ちゃんに会えそうな気がしたんだよね。そしたら本当に居るんだもん」
口を開く度、歌うように喋る男だと、真恵は思う。
流れるように言葉を紡ぎながら、軽い靴音と共に真恵に近寄ってきた優星は、真横にしゃがみこんだ。
「前も思ったけど、顔色最悪だね。立てる?」
「いや。結構だ」
「よ~し。じゃ、店に行こっか。こっちに腕回せる? 俺に捕まって」
「は? だから、結構です、って。いま断ったじゃないか」
「あのね。猫ちゃん、知ってる? 結構ってのはさあ、Yesって意味にもとれる言葉なんだよ?」
それは知らなかった。知っていたならば、使ったりしなかった。
真恵が瞬いていれば、優星が思ったより強い力で腕を引く。しかし真恵の体はその場から微動だにしなかった。
「……あれ~? いけると思ったんだけどな。ねえ。猫ちゃん、意外と体重ある? 俺が引っ張りあげたくらいじゃビクともしないんだけど」
「まあ80キロあるんで」
「嘘!? まじ!? そんなに!? じゃあさ、腹筋バキバキだったりする? 見して見して。6個に割れてんの? ダメならせめて服の上から触らしてよ~」
「…………服の上からなら」
「やった~! ねえねえせっかくだからもっと明るいとこで触らせてよ。そう。こっち。こっち来て。うわあ! やべえ! ガチでバキバキじゃん。固いなー! 猫ちゃんってばすげえかっこいいじゃん~! くっそー! 負けたわー! 俺、ジムの時間増やそっかなあ! ねえ。どこのジム通ってんの? え? そんなとこにあるの? 俺知らないわ。ちょっと住所書いてくんない? え? ペン? うわ~。いまないや。あ。ちょっとまって……ねえ、理央くーん。ペンかしてくんない? うん。席まで持ってきてもらっていい? サンキュー」
柔らかいソファに尻が包まれたところで、真恵はハッとした。
気づけば店のなかにいて、入口で身分証を見せていて、テーブルに案内までされていた。
真恵は咄嗟に立ち上がることも出来ず、ただ目を白黒させる。
あまりにも誘導が上手過ぎた。
さっきまでのものの数分の会話で、真恵をナチュラルに店の中まで誘導してみせた。
だがしかし、真恵はなんとかして早急に店から出ねばならない。
「……橘、さん。俺、金もってない」
隣に腰掛けた優星のスーツの袖を控えめに引く。
真恵がトレーニング中に持ち歩くのはスマホくらいだ。
キャッシュレス決済が使えなくは無いが、真恵の預金残高に余裕などない。
「ん~? そんなこと心配してたの? いらないよ。前も言ったじゃん。初回無料だから。大丈夫、大丈夫」
そんなこと言ってサービス代だの、キャストの飲み物代だのがプラスされて、結局ウン万円を請求されるに決まっている。
きっと『初回無料』と書いて、この世界ではウン100万と読むのだから。
「なに飲む? ソフドリもあるし、水もあるけど」
「い、いらない」
「猫ちゃん。大丈夫だってば。俺ウソつかないよ。ってか、なんでそんなに離れるのさ。こっちおいでよ……いてっ!」
「いたっ!」
真恵の手を取ろうとした優星の指が、静電気でバチッと爆ぜた。
思わず互いに短い悲鳴をあげる。
「…………わあお。またリアルにビリビリしちゃったね。やっぱ強烈な運命なんじゃない? 俺たち」
「……だから、たかが静電気で運命がわかるなら世の中運命だらけだろ」
「じゃあ運命だらけなんだろうね。だって、猫ちゃんは俺の運命の人なんだから」
「なんで言い切れるんだよ」
「だって運命だから」
「なんだそれ。わかんねぇ」
「そういうもんでしょ、恋ってさ」
「恋……?」
「うん。恋」
タイミングよくテーブルに運ばれてきたおしぼりを渡される。
真恵はそれを受け取りながら、内臓ってひとついくらで売買されるのだろうか、と現実逃避を始めていた。
しばらくすると優星は「ゆっくり寛いでて」と言い残すと、真恵のテーブルから離れていった。
1人残された真恵は立ち上がることも出来ず、キラキラと輝く店内をぼんやり眺め続けた。
定期的にどこかのテーブルにたくさんのホストが集まって盛り上がっている。
キラキラしたグラスがピラミッドみたいに高く積み上げられて、キラキラした瓶からキラキラした酒が大量に注がれている。
その近くには優星の姿があった。
真恵から見る優星の世界は、さまざまな色があふれてキラキラしていた。
キラキラの男がキラキラしていた。
真恵の生きる世界とは180度違っていた。
優星の店が静かになるまで、真恵はソファに沈んだまま、店内をあちこち移動する優星をひたすらに目で追い続けた。
気づけば、空が白み始めるころ、真恵は優星の後ろをついて静かな街中を歩いていた。
朝から活動する人たちにとってはちょうど起き出す時間帯で、もう既に今日という一日は始まっている。
重たい靴音がふたつ、マンションの階段を登っていく。
3階の角部屋のドアの鍵をまわした優星は、後ろを振り返った。
「はい。猫ちゃんのおうちはここですよ~」
扉が開かれ、招かれる。
「早く入りなよ」
促されるままに恐る恐る一歩ふみだせば、優星がキラキラした笑顔で両手を広げている。
気づけば真恵は反射的にその腕のなかに収まっていた。
「おかえり」
「………………ただいま」
ここは我が家ではないはずなのに、口から転がり落ちた言葉は、なぜか妙に馴染んだ。
抱きしめられた腕の中も、とても温かかった。
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