僕の作戦

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 出会い、というか、まあ出会いなのだけれど、僕が彼女と出会ったのは、同じ会社にいて、同じ部署にいて、そう必然的だった。  彼女はなんというか、住む世界観というかが異なりそうで、なんなら近寄りがたい気もしていて、特に話すこともなく、時間が過ぎていた。  彼女と話したきっかけというのは、もう業務上というのが最初で、人によっては話したうちに入らないと言われてしまうような、そんな程度からだった。  当時の僕には他に気になる人もいたし、彼女には相手も居たようだった。それがどうして、と今でも思わなくもない。  きっとそれは、彼女が関わってみると、無邪気で、不安定で、そして時おり見せる愛嬌がとびきりだったからに違いない。  僕が彼女といつの間にか他の誰よりも話すようになっていたのは、いまでも理由がわからない。なぜなら意気投合というには関係は浅かったし、深める機会もなかったからだ。  それで、いつの間にか、彼女が他の誰かと親しそうに話すと、自分でも不思議なほどに気持ちが乱れた。彼女が自分に話したことのない話を他の人から聞いたとき、言葉に詰まってしまう。驚くことにこの時点では、僕はまだ他の人に向かっていたわけで、不純極まりない。  そして、僕が彼女に向き直った理由も不純といえる。それは幾度も顔を見合わせ話してきたはずの会話の中で、彼女がおどけて歪ませた唇から視線がそらせなくなってしまった。  そう、そんな程度のことだ。でも、そのあと目があったときの彼女のしてやったりと言わんばかりの表情は今でも簡単に思い出せる。なぜならその時の僕はあからさまな表情になってしまっていたことは請け合いで、恥ずかしさと、僕の気持ちの動きを汲み取った上でなお、話を続けた彼女に動揺した、あるいは。  僕は彼女に声をかける。彼女は今もまだ笑ってくれている。けれど、僕は知っていて、気づいていて、それでも。彼女が産業スパイだと確信したのは、いつだったろうか。僕は肝心な方を思い出せない。  純粋な情報漏洩。持ち出すわけではない。ただ、いずれわかる、そんな形で、信用に関わる情報を外部からもアクセスできるところへ流れる仕組み、時間をかけてじっくりと、密かに築き上げられていた。僕が気づいた頃には、もうバレてはまずい事態に陥っている段階で、彼女の送別会の日時が段取られている頃だっだ。  僕は幾度も彼女を誘い出そうとしてきた。けれど、上手くことが運んだことはない。それは僕が上手い口実を、魅力的な提案をしてこれていなかったからだ。改善の余地しかない。恥ずべき思い出たち。それでも、僕はまた声をかける。もう取り返せないところに自分が居ることは分かっている。僕の手元には彼女の証拠が残っていた。  彼女を送別会の前日に呼び出すことにした。もちろん二人きりだ。僕は知っている。彼女も気づいている。彼女は来てくれるだろうか。僕は彼女の連絡先を社用携帯しか知らない。彼女がそれを返してからでは連絡が取れなくなる。そもそも直接声をかけるべきなのではないか。葛藤。  彼女が来てくれるらしい。らしいといっても、直接聞いたのだから、らしいというのはおかしな言い回しで、自分の動揺が感じられた。僕は準備を整えてきた。社内で人気のない部屋に明かりは付けていなかった。扉がゆっくり開かれる。部屋に入ってきた彼女は幾らか気まずそうで、それでも視線は僕に向けてくれている。普段のようには言葉が出てこない。ぎくしゃくとした会話が、ボソボソと続く。ありきたりなお別れ前の思い出話。そうすることしかできない。僕はすでにすべての証拠、痕跡を処分してきている。僕には何の後ろ楯も手札もない。彼女と目があった。 「僕はあなたが大好きで、愛しています」  僕は知っている。彼女の手口で気づかれる可能性があったのが社内で僕だけだったことを。そして、彼女の言動が最初から作り込まれていたことを。それでも、僕は。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加