くま先輩がやってきた

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くま先輩がやってきた

 くま先輩がやってきた。5日分の眠気ただよう金曜日のひるさがりのことだった。 「交換留学生を紹介します、入って」  先生が言うと、横スライドのドアが壊れそうなほどの筋力で開け放たれた。ドオンと音がする。太く立派な後ろ足2本で立ち、重たい身体を運ぶように、彼が来た。  むわりと教室に立ちこめる獣の気配。土と森と生のにおい。  真っ黒な体毛に覆われた、2メートルをゆうに越える身体。  市販では絶対に売っていないだろう、特別に仕立てたらしき紺色の詰め襟を着ている。首のふとさのせいで襟元は締めることができておらず、第二ボタンまで開き、生地の厚めな白ブラウスが覗く。下半身も男子用の制服を履いているし、靴は大きな黒革のローファーだった。  まんまるいふたつの眼が、生徒たちを観察するように見ていた。  彼は、挨拶を始めた。自己紹介だろう。熊が鳴く。人間の言葉ではない。地鳴りのような大きな声で、鳴いた。名乗っているのかもしれないが、聞き取れなかった。  なぜ学校に熊が?  なんで?  クラスじゅうが一様に声を失って騒然とする中で、塚原アイネは目を醒まして叫んでいた。 「くまっ!?」  もし熊が人里に出没したら、たいへんな騒ぎになる。アイネの住む町は、山よりも海が近い立地だ。熊がでた話は生まれてこの方、耳にしたことがない。 そもそも、日本でヒグマは北海道にしか生息していないはずだ。野生でなければ、動物園とかには、いるかもしれないけど……  アイネは一年生のなかで最も小柄な、羽のような女の子だ。頭のてっぺんに大きく結ったお団子で、なんとか見た目を嵩増しさせていたが、お団子を含めても平均身長の女の子より小さい。アイネからすると、大きい生き物は余計に畏怖の対象だった。  熊ははっきりと、ちいさなアイネに焦点を定めて見つめてきた。アイネが二の句を継げないでいると、先生が手を叩きながらその場をまとめはじめる。 「交換留学の期間は二ヶ月です。短い間ですが、くまくんとの異文化交流を……」なんちゃらかんちゃら。   呼び方は、くまくんでいいのか? さっき名乗っていたのに。先生にも、くまの言葉はわからないようだった。 「そうそう、彼は君たちよりひとつ上の二年生なんですよ」  年上だ。見た目ではくまの年齢なんて、さっぱりだった。 「じゃあ、くま先輩だ」  誰かが声を上げる。くま!とは呼びづらいので、(人間に向かって、おい人間!と呼ぶようなものだ)先輩という属性が足されて、少したすかる。浜辺に波すそが広がるようにして安堵が伝っていく。  くまは、チョークを器用につかんで、黒板に何か書き記し始めた。くまって、字、書けるんだ……。しかしそのハリガネムシのような怪文は、誰も読むことが出来なかった。それに、黒板が掛かっている位置よりも身長が高いので、書きにくそうだった。  高校の生徒としてこうして立派に制服を着て、教室までやって来た彼は、お山で鮭や鹿の狩りをして食べ物を得、日々暮らす野生の熊とは違うのだろう。文化の側にいるのだ。 『交換留学』と先生は言った。くまの世界にも学校があって、仕事に就くまえの若者が通って机を並べ、勉学に励んでいるということか。  宮沢賢治の童話みたい。  アイネが必死にそう思ってみたところで、やっぱりおかしいような気もした。
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