その日のSHRが終わると

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その日のSHRが終わると

 その日のSHRが終わると、くま先輩はすぐに鞄を提げて下校した。先生によると、下宿先の片づけがまだ済んでいないということだ。  アイネはくま先輩がいなくなったのを確認してから、急いで親友のそばに駆け寄った。バレーボール選手のようにスタイルの良い、ベリーショートの似合う女の子に。  涼しげに髪の切りそろえられた耳に、口元を近づける。 「ねえ、ねえリリ……交換留学ってことは、うちからも、くまの学校に行った人がいるってことだよね?」 「なに言ってる、アイネ。もう半年も前に、山奥のくまの学校に留学にいく生徒は決まっていた。うちのクラスの幸田だ」 「ええっ幸田が?」  幸田勇は、二年生で同じクラスになった男子で、背は高く顔の造形は整っているし髪もさらさらヘアーで成績もそれなりに良い。  モテ要素ばかりのスペックのくせして、妙に気が弱いしおどおどしている。けれど、それが逆に親しみやすさにうまいこと変換されていて、クラスでも女子たちと自然と接することの多い男子だ。男子に縁遠いアイネも、幸田とだったらおしゃべりした。 「大丈夫なの? あのくまの先輩みたいな人が何十人…ぴき? いや、にん? いるんでしょ、その中にいくなんて……」  ピラニアがうじゃうじゃいる川に裸で飛び込むようなものではないのか。捕食されに行くのか?  アイネの頭のなかでは、校舎裏でくまたちに取り囲まれてかつあげされる幸田とか、購買部にパンを買いに行かされる幸田の姿が浮かんでは消えていった。最低最悪の想像もしたが、それは脳から追っ払う。 「さあ、平気じゃない? うちの学校とくまの学校、何十年も昔からこうやって交流してるって。交換留学は数年ぶりっぽいけど」  さも当然のようにリリは言い、切れ長の目を眠そうに細めた。 リリが落ち着いているので、アイネも次第に冷静さを取り戻し、ふたりはいつものように肩を並べて帰ることにした。  肩を並べるといっても、背の差が二〇センチ以上ある。ちぐはぐな見た目だが、入学初日に話したときから不思議とうまがあった。  アイネの名前の由来は、モーツァルトの名曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』で、母方の祖父が名付けた。一方リリの名も、リリック(叙事詩)からきていて、彼女の祖母が名付け親だ。アイネの祖父は音楽を愛するハイカラ紳士で、リリの祖母は詩と文学をたしなむ国語教師なのだ。そんな話をしてから、奇縁を感じるようになった。 『くまの学校、どう?』  夜、お風呂あがりに思い立って、幸田に連絡してみた。  SNSアプリを立ち上げて、幸田宛てにメッセージを打ち込み、ためらいなく、送信ボタンを押した。  出会った頃に、席が近くの六人だか7人だかのグループで、その場のノリで連絡先を交換した。その後、今まで一度も幸田に連絡をしたことがなかった。  履歴が真っ白の画面に、アイネのメッセージだけが所在なく、ぽつんと浮いている。  たぶん、アイネの気分は高揚していた。ふだんは自分でも短所と思うほど消極的で、仲の良い子以外に、自分から連絡を取るなんてしないのに。しかも男子に。初めてかもしれない、必須事項以外で、男子に自分から連絡したのって。  アイネはベッドにすわって、そのまま横倒しになった。  ああ、くまのせいだ。  ぜんぶ、くまのせい。  アイネは半分目を開け、ベッドから見える窓際の棚に置かれた、一匹のぬいぐるみに目を留めた。  テディベアだ。  もう記憶にないほど昔、アイネが二歳か三歳の頃に、祖父がプレゼントしてくれた。ドイツの有名なテディベアメーカーから取り寄せたものだという。さすが老舗だ。年月が経っても、その縫製は少しもくたびれずに、澄ました瞳でおすわりしている。  おもちゃやぬいぐるみは、幼い従姉妹たちに譲った。けれど、このテディベアだけは手を離せずに、部屋に残っていた。  小さい女の子が抱っこしやすく、手に馴染むふわふわの毛並み。ミルクティみたいな優しい色のくま。  公園、おかいもの、親戚の家。三軒先のおともだちのおうち。どこへいくにもいっしょだった。  とくべつなのだ。手を離せるはずがない。  あの頃の、アイネのいちばんの友達。  ベッドから降りて何歩か歩き、テディベアを抱き上げた。 「あのね、クーちゃん」  小声で鼻もとに話しかける。  きょうね、くまのせんぱいが学校に来たの。  くま、か……。  考えても考えてもわからない。  くまがクラスメイトってなに?  寝る時間になっても返事は来なかった。幸田のいる熊の里は山奥で、圏外なのかもしれなかった。
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