化けねこ

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化けねこ

今夜のように、雪が深々と降っていた。 江戸・下町。小さな居酒屋を営む、お佑紀(ゆき)は早じまいをしようと外へ出てきた。 「さっきお客さんを見送った時は晴れていたのにね」 見ると下駄の跡がはっきり残る程、雪が積もっている。お佑紀は空を仰ぎ、手のひらで雪を受け、くるくると回って見せた。 「あの夜も雪が降っていたのよね。沙也(さや)ちゃん」 お佑紀はしゃがみ込み、店の前にある小さな稲荷祠の奥を覗く様に見た。一年前、お佑紀はこの場所で子猫を拾ったのだ。掌にすっぽり収まる程、小さかった子猫は、雪に濡れてブルブル震えていた。 「お前もひとぼっち?」 子猫はお佑紀を見上げて泣いた。 「食べ物屋だけど、悪戯しないんならうちに来るかい」 そうして子猫と暮らしはじめて半年が過ぎた頃、猫の沙也がいなくなってしまったのだ。 「本当にどこにいっちまったんだろうね」 しゃがんだままで左右を見渡した。猫の沙也がいなくなってから一年も経っている。帰って来る可能性は少ないだろう。誰もがそういった。 「おー、寒い、寒い」 身震いをしたお佑紀は、急いで暖簾を下げると、店の中に入って行った。 「あら?」 「あれ?」 店内の正面に一枚板の長い机がある。その上に沙也がちょこんと座っていた。冷めた眼で、こちらを凝視している。 「いま、あれって聞こえた?」 お佑紀は狭い店の中を動き回り、だれか人でもいるのか確かめた。 「いないねぇ。ん、沙也ちゃん帰ってきたの」 「そうよ、気づくのが遅いわねお佑紀ちゃん」 棒立ちになったお佑紀は、チラっと後ろを振り向いた。店の扉、暖簾が内側に掛かっている。人の気配はなかった。 「お佑紀ちゃん、わたしよ沙也。あなたの飼い猫。人なんていないわ」 今度、お佑紀は台所を見た。台所は長机の内側にあり、客席から良く見渡せた。お佑紀は首を捻り、人差し指で米神を抑え、台所の奥に掛かる階段を駆け脚で上った。沙也はその様子を首をまげて見ていた。 「全くもう、なかなか現実を受け入れられない人なのよねぇ」 沙也はいって毛繕いをはじめた。一方お佑紀は、二階にある六畳二間の自分の寝室に入り、押し入れから布団を取り出すと、それを慌ただしく敷き、前垂れをつけたままの格好で布団を被った。 「最近、働き詰めで疲れすぎているんだよ、あたし。きっとそうさ」 暫くそうしていたら、いつの間にか寝入ってしまった。目覚めた時は、明け五つ半の鐘が鳴っていた。 「いけない、寝すごした」 お佑紀が上体を起こすと、足元で、身体を丸めて寝ている沙也がいた。足の先を動かし、沙也の身体に触れてみる。沙也はピクリともしない。そーっと足を曲げ、身を乗り出して猫に顔を寄せた。すると沙也が顔を上げた。 「おはよう、お佑紀ちゃん。寝坊じゃない」 「きゃっ、化け猫!」 お佑紀は這うようにして階段を降りたが、均等を崩してずり落ちてしまった。 「また階段から落ちてる。本当にもう、おちょこちょいなんだから」 階段の上から沙也は、肘を打って痛がるお佑紀を眺めていた。お佑紀は沙也を一瞥すると、棚から湯屋の道具を引っ張り出し、店を出て行ってしまった。 「また逃げた。まあ仕方ないわね。あの子の癒しの場所は湯屋なんだから」 沙也のいう通り、お佑紀は湯屋に向かっていた。桶は自分専用の物を保管して貰っていたし、1年間入り放題の定期券も買っていた。おまけに湯屋は店の角を曲がった向かいにあり、店を出て三十秒で到着する。物心ついた頃から通っている湯屋には知り合いも多かった。しかしきょうのお佑紀は機嫌が悪い。番台のおばちゃんや、近所のジジババに声を掛けられても無視して、ひたすら前を睨む様にして歩いた。頭が混乱しているのだ。 脱衣所で着物を脱ぎ、いつもの様に湯船に顎まで浸かった。 「お佑紀ちゃんどうしたんだい?そんな難しい顔をして」 「見えるの?」 「えっ、なんだい?」 話し掛けて来たのは湯屋の通りで団子屋を営んでいる、お富ばあちゃんだった。顔付はクシャクシャだが、肌艶は良い。 「湯槽の中は暗いんだよ。湯気もモクモクしているしさ、こんな暗い所で、あたしの顔が見えるのかい」 「なんだって?わっちは耳が遠くなってね、早口なんだよ、お佑紀ちゃんは」 お富が大声を出すので、お佑紀は湯槽を出て洗い場に移動した。 「ただいまあ」 行く前よりも疲れた顔付で帰って来たお佑紀は、沙也がどこから表れるのか気にしていた。目ん玉だけを器用に動かして、手拭と糠袋を裏庭の物干しに干した。糠袋とは、赤い布の袋にもち米の糟を詰めたもので美肌効果もある。 「やっぱり疲れていただけか。沙也の姿も幻だったかも」 勝手口の横に置いてある、空いた酒樽に手を掛けて、お佑紀は首を垂れた。 「まぼろしって、幻なんかじゃないわよ、お佑紀ちゃん」 「また出た」 よっこいしょっと、お佑紀は折り曲げていた腰を伸ばし、声のする方を見た。沙也は隣の店の屋根瓦の上にいた。前足を舐めていたが、視線はこちらに注がれている。 「ばっ化け猫ね、沙也の姿をした化け猫。さあおいで」 お佑紀は意を決した様子で猫を手招きした。猫も今度は言葉ではなく、にゃーにゃーと鳴きながら下に降り、お佑紀の後をついてゆく。お佑紀は台所を抜け、店内に入り、店の扉を開けて外へ出た。足元には猫はがいる。お佑紀はそのまま真向いの稲荷祠へ入って行った。 「ああ、おいで化け猫さん。お稲荷さんに成敗して貰うからね」 下を見ると猫がいない。 「えっええ。どこ?」 お佑紀は左右上下を見渡し、探した。 「ここよ、お佑紀ちゃん」 声のする方を見ると、猫は祠の中にいて、こちらをじっと見つめている。 「全く用心深いんだから、お佑紀ちゃんは」 「よっ用心深くもなるわよ。猫が人間の言葉を話し出したのよ」 「もう慣れた?」 お佑紀は黙って首を振った。唇を尖らせている。 「お佑紀ちゃんいつも兄妹が欲しいなあって言ってたでしょう。だからわたしが、願いを叶えてあげようと思ったのよ」 「いったわよ。でもあたしが欲しかったのは化け猫ではなく、人間の兄弟よ」 「だからいってるでしょう。わたしは化け猫ではなくて沙也だって」 お稲荷さんの祠の中でゆったりと座る沙也は白くて長い尻尾を高く掲げてゆらゆらと揺らしていた。沙也は面白い色柄の猫で、身体は三毛なのだが、尾が大きく毛がふさふさしていた。 「沙也なのはわかるわよ。わかるわよ」 「なら決まりね」 そういうと沙也は祠の扉をすり抜けて、お佑紀の足元に下りた。大きな尻尾を、お佑紀の足に絡ませて、顔を見上げている。言葉さえ話さなければ、あの時の沙也、そのままだった。お佑紀はしゃがんで、沙也の頭を撫でた。 「猫じゃない。ゴロゴロいってる」 「そうすると喜ぶかなって思っただけよ」 すました顔をした沙也は先に立って、店の中に入っていってしまった。 お佑紀の店は、居酒屋で、昼から夜まで営業。不定休で、良い食材が入らない時は、店を閉めることが多い。客数は長机に10人だけ。対面式の台所は割と広く、奥行きがあった。格子窓が通路側に二窓あり、道行く人から丸見えだったが日当たりは最高だ。 お佑紀は現在18歳。2年前に両親を亡くした。原因は、流行病だと聞いている。当時16歳のお佑紀は、増改築したばかりの両親の居酒屋を継ぐことを決意。周囲の大人たちの手助けもあり、2年間、店を守り続け、それなりに流行っている。料理の品書きは、旬の魚料理、田楽、湯豆腐、茹でたこ、芋の煮物、おでん、蕎麦だった。どれも評判がいい。昼間は職人が多く来るので定食を出した。夕方からは湯屋上がりの客が増え、賑わった。 「さあ、そろそろ開店としますかね」 今朝はいろいろあったので、夕方からの開店とした。暖簾を出した途端、近所で小さ飲み屋を経営している、お厚が来た。大きな身体のお厚は、両手を伸ばして暖簾を掛けているお佑紀を押しのけて店に入って来た。 「女将、お酒頂戴、冷で」 真ん中の席に座り、煙草に火をつけた。 「宮ちゃん見た?宮ちゃん」 酒樽から酒をついでいるお佑紀を、机の上に身を乗り出して覗いている。 「いや、最近、見てませんね」 宮というのは、お厚の元彼の棒手振りだ。ちなみにお厚も宮も50代。 「あの人、近頃「さんた」に行ってるらしいわよ」 さんたとは、お厚の店の近所にある、これまた飲み屋だった。お厚の店がある通りには、立ち飲み屋も含め、30軒程の一杯飲み屋があり、大半の店が、女将ひとりで営んでいる。 「ところでさ、宮ちゃん、ツケない?」 お厚は顔の横で手を縦に振り、口を曲げて見せた。これは彼女が他人の噂話をする時に良くする癖である。 「いいえ、うちではないわよ。お厚さん、お通し食べる?このわたの塩辛」 「ちょうだい、ちょうだい、何でも食べるから」 お厚は、酒の入ったグラスを両方の頬に交互に持って行き、冷やしている。これも彼女の独特の癖である。夏も冬も、年中この仕草をしてる、余程、暑がりと見える。 「良かったら、お佑紀ちゃんも飲んでよ」 「飲みたいけど、未だ早いからいいわ」 お佑紀は、左手で袂を抑え、腕を伸ばして塩辛の入った小鉢を、お厚の前に置いた。割り箸は箸入れに入っている。そうこうしていたら、噂の宮が入って来た。彼は片手で暖簾を抑え、中を覗いたが、外から見てお厚がいるのを知って入って来たのだとお佑紀は思った。 「おお、ここにいたのかよ。店に行ったら閉まってたからよ」 宮はお厚の隣に座ったが、お厚は知らんふりをして顔を背けている。 「はい、お通し。このわたの塩辛だよ、宮さん好きだったでしょう」 「おう、いいねえ。熱燗にはこれが最高なんだよ。それと焼き魚ちょうだい」 「あたいも焼き魚にするわ」 机の上に両腕を置いて、お厚は仏頂面である。本当は嬉しい癖に、とお佑紀は心で思っていた。 「お、お、お」 そういって入って来たのは、裏店で絵をかいて暮らしている、津波(つなみ)である。週に2回店に来ては、酒を浴びる程飲む。 「おう津波か」 宮は津波を一瞥し、またすぐに前を向いた。津波には吃音があり、お話が上手に出来ない。それだけならば他の客とも上手くいったのだろうが、なんせ口汚く人を臭し、目をじっと見つめるので、男同士は口喧嘩、時には、「表に出ろ!」など白熱する場合も。女に対しても同じで、目を見つめ続けるのだから、「気持ち悪い」と忌み嫌われる。彼は40代半ばで、縄文人ばりの濃い顔をしていた。街ではすっきりとした顔立ちが流行だったので、彼には気の毒だな時代だった。 「よう、おっ女将、なんだよ、客が来てんだから、あ、挨拶しろよ」 魚を焼くために外に出ていて、客が来たことに気が付かなかったお佑紀は慌てて中に入り、魚の油のついた手を前垂れで拭いた。 「ごめんなさいよ。津波さん、いらっしゃい」 「さっ酒と、なんかつ、つまみ」 「お酒は熱燗ね、つまみは湯豆腐でいい」 「いっいいよ」 机に両腕をがっつり乗せ、肩まで伸ばした脂ぎった髪の毛を片手でかき分けた。そして顔なじみのお厚を見ると、 「お、なんだよ、お前。ぶっ豚になったのか、うひゃひゃひゃー」 「豚じゃないわよ、これは水太り。それよりツナちゃん、お酒貰っていい」 「い、いいよ、別に、飲め、飲め、ブタ」 「お佑紀ちゃん、津波ちゃんから一杯貰うから、あたしも熱燗ちょうだい」 お厚は全く構ってなかった。むかしお厚の店の中で、彼女の胸を触って殴られたと津波が嘆いていたことがある。 魚が焼けた頃には客が満杯になっていた。お佑紀はひとりで店の中を走り回っている。その様子を、座布団を敷かれた階段に座り、お佑紀の姿を目で追っているのは沙也である。時折、あくびをしながらも楽しそうだ。 「そこで見ているだけでなくてさ、手伝ってくれたら、焼き魚でもあげるんだけどねえ。役立たずな猫だよほんとに」 「憎たれ口ばかり聞いてないで、とっとと手を動かしなさいよ」 ふん、とお佑紀は鼻を鳴らし、机に面した台の上にあるまな板と包丁の前に立ち、刺身用の魚を切り始めた。開店から未だ一時間しか経っていないのに、これだけ混雑しているのには、ひとつ理由があり、昨日は銭湯が休みだったことで、きょうの銭湯への客が倍に膨らみ、その客達が、銭湯からいちばん近い、お佑紀の店に流れて来ているのだ。ちなみにだが店の名は「さくらさくら」 「邪魔するよ」 席は満杯だったが、馴染み客が酔った調子で入って来た。手拍子を打っているのは、彼が酔った時の合図である。 「あら、富山さん」 お佑紀は席を見渡した。満員なのは知っているが、すぐに断ることはしたくない。客同士、顔を見合わせ、席を空けようとする者。知らん顔で酒を飲んでいる者。それぞれである。それでいいとお佑紀は思う。 「おう、富山。ここに座れ、俺はもう帰るからよ」 そういったのは宮だった。 「いいの。いやん」 女言葉を使い、宮と席を変わった。同じ頃、お厚もお勘定と手を上げた。 「富山ちゃん、またね」 お厚は、この富山とも噂のある女だ。中年の魅力がぷんぷんしている。店の中では言葉を交わさなかった、宮とお厚だが、帰りはふたり並んでいた。 「なんだ、あのふたり梅に行くのか?」 梅というのはお厚の店の屋号である。 「さあね、そうじゃない。富山さんは熱燗だね」 「うん。それとおでんを適当に」 最初の注文でおでんを頼んでくれるのは助かる。単純に手間が省けるからだ。 「ねえ、お佑紀ちゃん」 田楽を焼くため、裏の台所に引っ込んだ時、沙也に話し掛けられた。 「なーに沙也ちゃん、あたしは忙しいんだよ」 「ここから見える位置に、男女のふたり連れがいるでしょう。ひとりはお武家さんで、もうひとりは商家の娘みたいな」 「あー、最近、時々来てくれるんだよ。それがどうしたの?」 「あの男なんだけど、どこかで見た記憶があるのよねぇ」 焼いた茄子に味噌を塗りながら、お佑紀は、そのふたり連れをちらりと見た。 「嫌味だね、沙也ちゃんは」 「あらっ気づいてないのかと思ったのよ」 「気付いてない訳ないじゃない。初恋の人なんだから」 お佑紀は田楽を、ふたり連れの男の方に差し出した。 「はい。田楽ですよ。熱いので気を付けて」 「ありがとう」 礼をいったのは女の方だった。女は(さき)といい、見た目通り、大店の娘だ。男の名は慎一郎。旗本の三男である。ふたりの会話の感じから、彼らは銭湯で落ちあい、「さくらさくら」へ来ている。咲の年齢は二十歳そこそこで、慎一郎は28歳だった。慎一郎とお佑紀は昨年、店で知り合い。芝居を観に行ったり花火を見たりと、いい仲だったのだが、ここ最近、咲へ乗り換えた風に見えた。それでもこれ見よがしに、さくらさくらへ来るのだから、お佑紀としては堪らない。まな板の前で茫然としていたら、酒を勧められた。 「ほい、飲んだらあ」 他に作らなければならない料理もあったのに、ほんの数秒だが、お佑紀は立ち竦んでしまっていた。やはり見たくない光景だった。10歳も年上の慎一郎をお佑紀は心から慕っていたからだ。手を握ったこともない間柄だったので、お佑紀の一方的な片思いなのだから、慎一郎に文句のいいようもない。しかし嫌な感情は押し殺すのに苦労する。 「ありがとう、お酒欲しかったんだ」 富山が差し出す徳利の先にお猪口を持って行き、お佑紀は三杯続けて飲んだ。 「あっ、あれ、もしかして沙也かい」 沙也が階段から降りて、慎一郎の座る手前にある台の上にちょこんと座った。 「まあ、かわいい。きれいな猫ですね」 咲は祈る様な手をして沙也を見つめている。 「沙也が帰って来たんだね」 慎一郎が笑顔でお佑紀を見た。沙也がしゃべり出したらどうしようと、お佑紀はこくっと生唾を飲んだ。 「えっええ、戻って来たの」 「そりゃあ良かった。沙也はこの店の看板猫だからね」 慎一郎だけではなく、遠くに座る客も、沙也を見て喜んでいた。 「でも飲食店だからさ、猫には裏に入ってて貰わないとね」 「おいおい、なに言ってるんだよ、いつもそこに座ってたよー」 酔っぱらった富山が、頭の上で拍子を打ちながらそういった。 「そうだよ、お佑紀ちゃん。沙也はいつもそこにいたんだから、裏に隠さなくてもいいんじゃないか?」 「わたしもそう思うわ慎一郎さん。慎一郎さんてやさしいのね」 祈った手つきのまま、咲は慎一郎に向いて、熱い視線を浴びせた。美人だが、唇の厚さが目立ちすぎる。するとその時、沙也が飛んだと思ったら咲の前の机に乗った。そして彼女が使っていたお猪口を、前足で流しの方に落とした。そして大きく伸びをして、咲を見たと思ったら険しく威嚇した。 「沙也ちゃん」 お佑紀が抱きげると、客からは見えない位置で、沙也は舌をペロリと出した。 「全くもう、なんであんなことするのよ」 店じまいをし、後片付けをした後、お佑紀はひとり、店内で熱燗を飲んでいた。酒のつまみは、湯豆腐だ。やっちゃ場で働く客が持参した青菜をたくさん入れている。 「それでも少しはすっきりしたんじゃないの?」 沙也は机の上に座布団を敷いて貰い、優雅に寝そべっていた。 「そりゃそうだけど、慎一郎さんが決めた相手なら、もうどうすることもできないじゃないのさ」 「奪い取りなさいよ」 「奪い取るなんて、そんな」 手を振るお佑紀はほろ酔いだった。乱れた髪を撫で上げ、かったるそうに酒を口に運んだ。 「それより沙也ちゃん、いままでどこに行ってたのよ?」 「聞きたい?」 「そりゃ、聞きたいよ」 前足を舐めていた沙也は両足を伸ばしてキチンと座った。姿勢が良く美しい。 沙也の話しによると、1年前の雪の日、稲荷祠の前で、白い着物を着て倒れている女を見た。最初は死んでいるのかと匂いを嗅ぐと、女はすくっと起き上がり、祠の中に吸い込まれて行った。沙也が後を追うと、拝殿の前で手を広げた女が自分の中に入って来たのだという。少しの期間ののち、お佑紀の元に帰って来たのだが、まさか一年もの歳月が経っていようとは、まるで、浦島太郎の気分だと沙也は笑っていた。 「それで、なんで言葉を話せるようになったかわからないの?」 「わかってるわ」 「全くもう、それを早くいってよ」 机の上で一回転した沙也は、伏せをした。 「人助けをするのよ」 「人助け?」 「そうよ、人助け。それがわたしへの神命ね」 「ふーん」 お佑紀は掌に顎を乗せ、聞いていた。 「それでね、お佑紀ちゃん、最初の人助けはね」 「うん」 酒が廻って来たようで、お佑紀の目は半開きになっている。 「慎一郎さんよ」 「えっ!」 慎一郎と聞き、お佑紀は一気に目が覚めた。 「慎一郎さんがどうしたっていうのよ」 「まあ見てなさい。あの女の化けの皮を暴いてやるから」 翌日、沙也を抱いて、佑紀は咲の実家に向かった。咲の家は有名な呉服屋だ。人の出入りに圧倒され、大きな暖簾の前で戸惑っていると、咲の方から声を掛けられた。 「あら、もしかしたらお佑紀さん」 「あっ」 自分に自信をつける為にと、決戦日は派手で高価な着物を着る様にと沙也に言われていた。お佑紀は沙也の言い付けを守り、成人の日にと、両親が用意してくれていた振袖を着て来た。真っ白な生地に小さな桜の刺繍が一面に散りばめられている。お佑紀が産まれた時から、母親が何年も掛けて桜の刺繍を施してくれたのだ。お佑紀が生まれた日、桜の花が満開だったと聞いている。しかし名前は「さくら」ではなく、夫婦から一文字づつ取って名付けた。 「こんにちは」 お佑紀は動揺を隠せないでいた。というのも咲の隣には慎一郎が立っていたからだ。 「真冬なのに桜?」 咲は小首を傾げている。そしてにやりと微笑んだ。黒目が縦に伸びている。お佑紀の背中に悪寒が走る。腕の中で、沙也が牙を出して威嚇した。 妖怪滅絶のはじまりだった。
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