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第1話-②
結局夕方まで遊んでしまった。今月のお小遣いが早くもピンチだ。
「ただいま~」
扉を開くと、奥の台所からラジオの音が聞こえてくる。それに、野菜を煮込むいい香りだ。ばあちゃんがもう戻ってきているらしい。
わたしは洗面台で手を洗い、和室の仏壇に挨拶をしてから、食卓に向かった。
「ばあちゃん、ただいま」
エプロン姿のばあちゃんは、くるりと振り返るとふん、と鼻を鳴らした。
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか、今日は午前で終わるんじゃなかったのかい」
「友だちと遊んできたの」
「そうかい。もうすぐご飯できるよ。制服、着替えておいで」
「うん」
わたしは狭くて急な階段を上り、部屋に戻って制服をハンガーにかけた。窓から差し込む西陽は真っ赤で、海が燃えているようだ。遠くから、町内放送のチャイムが聞こえてくる。うちではこれが夕飯の合図だ。
食卓に戻ると、すでに配膳が済んでいた。ばあちゃんはエプロンを脱ぎながら、ラジオの音量を少し小さくする。ちょうど、野球のナイターゲームが開始したころだ。
「さ、食べるよ」
「うん。いただきます」
「いただきます」
食事中は、ばあちゃんと一番多く会話をする時間だ。
「どうだい、新しい友だちはできたのかい」
「どうかなあ」
「クラス替えがあったんだろう? 誰とでも仲良くしろってんじゃないんだ。でも、仲のいい友だちは、多いほうがいいに決まってるよ」
「うん」
「どうなんだい?」
わたしは春月さんのことを思い浮かべた。
「友だち……なのかな。ちょっと、気になる子がいて」
「気になる?」
「よそから転校してきた子がいるの。すごくきれいな子で、でも、ちょっと不思議な感じなの。話しかけにくそうな感じ。でも……」
「でも、仲良くなりたいのかい?」
「仲良くっていうか……」
「話しかけにくそう、って、瑠璃が思っているうちは、向こうも話しかけちゃくれないよ」
ばあちゃんは、いまだに全部生えそろっている歯でレンコンとゴボウを噛みながら言った。
「お前が話しにくそうにしてるから、向こうも話しかけてもらいたがっていないのさ。他所から来たってんなら、なおさら話しかけてやったほうがいいんじゃないのかい? きっとその子も、それを待っていると思うよ」
――『ごめんなさい。言いたくない』。
クラスメイトに向けて放った、あの言葉を思い出した。
言いたくない。
それは、話したくない、という意味ではないのかもしれない。
「わかった。ありがとう、ばあちゃん。ごちそうさま」
ちょうどご飯を食べ終わって部屋に戻ろうとすると、ばあちゃんの鋭い声が飛ぶ。
「こら! 食後の皿洗いはお前の仕事だよ」
「ちぇ。はぁい」
「なんだいその態度は。夕方まで遊んできたんだから、それくらいやるんだよ」
その日の夜も、わたしはばあちゃんが寝静まったころを見計らって、夜の散歩に出かけた。いつもと――昨日と同じ道を通って、また海へ。今日は夜風が強い。森がざわざわと揺れて、波が少し高く立っている。
「あ……」
――今日も、彼女はいた。
夜風になびく亜麻色の髪。月明かりに映える白い肌。空に浮かぶような青い瞳。
春月光。間違いない、だって、学校の制服を着ているから。彼女は片手にローファーを持って、裸足て砂浜に立っていた。足首のあたりまで波が寄せては引いていき、白いくるぶしを濡らす。
彼女はぼうっと空を見ていた。
ただ見ていた。見上げていた。
美しかった。
月に照らされた横顔と、揺れる髪の毛が。波に晒される白い足が。
「春月……さん?」
わたしは勇気を出して、声をかけてみた。
緊張しすぎて、自信がなくて、最後のほうは疑問形になってしまった。この期に及んでまだ、わたしは、人違いなんじゃないかと思っていたのだ。
だけど、彼女はゆっくりと振り返った。振り返ってこっちを見た。
正面から見た顔は、自己紹介の時に見せた、あの顔に間違いなかった。
春月さんの青い瞳が、円く、こちらを見ている。
「あの……ロングホームルームで、自己紹介、したよね。わたし、羽山瑠璃。よろしくね」
無言。
「実は、ね。家がすぐそこなんだ。ばあちゃんとふたりで住んでて……あっ、あの、親はいないんだ。小さいころに死んじゃってさ」
無言。
「えと……春月さんは、なに、してるの? こんな時間に、こんなところで」
無言。
「あ、あの……」
「――あなたには、関係ないわ」
心臓がどきっとした。
美術館の石像が、いきなりこちらを向いてしゃべったような感覚だった。まっすぐこちらを見つめたまま、春月さんははっきりとそう言った。人間の声とは思えない、無機質で、透き通った美しい声だった。
春月さんはわたしから目をそらして、また、空に目を向けた。
月は高く浮かんでいる。ところが、風に運ばれてきた雲が急に月を覆って、隠してしまった。すると、春月さんの姿が急に闇に紛れて消えてしまったように感じられた。もちろんそんなことはなくて、目の前にちゃんといるのだけれど――
雲が晴れ、月がまた顔を出した。すると、春月さんの姿がまた、闇に浮かび上がった。髪の毛や、白い肌が、まるでその場で光り輝いているように見える。そうなのだ、彼女が光っているわけじゃなくて、月の光が彼女を照らしているのだ。その姿が、とても、美しく見えるのだ。
暗い夜の海を描いた絵画の上から、白い絵の具で描き足された妖精。
「昨日も……ここにいたよね」
わたしは思い切って、春月さんに言ってみた。
「見ちゃったの、あなたが……その、海に入っているところ。だから、今日、春月さんを教室で見て……びっくりしちゃった。だって、すごく――」
――きれいだったから。
そんなこと、今日会ったばかりの人に言えるわけがない。
「春月さんは……月を見るのが好きなの? それとも、こうして海の音を聞いているのが? わたしは、どっちも好きだよ。小さいころから、どっちも――」
「静かにして」
春月さんは、なんだか泣きそうな、弱々しい声でつぶやいた。
「――ごめんなさい」
それきり、春月さんはまた、何も言わなくなってしまった。
わたしは今度こそ何も言えなくなって、ゆっくり、その場を後にした。森に入る前に振り返ると、春月さんはまだ、暗い闇の中に浮かんでいるように光っていた。
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