第1話‐③

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第1話‐③

 次の日、学校に行くのは憂鬱だった。 「はぁ……」  春月さんと会ったら、何と声をかければいいのだろう。もう玉ちゃんのことを笑っていられないかもしれない。転校してきたばかりの、初対面の人に、あんなふうに話しかけるべきではなかった。絶対、よくない印象を持たれた。  さび付いた古い電車が、ぎぎぃーっとブレーキを軋ませながら止まった。車掌に定期券を見せて、電車に乗ると、ドアが閉まってがたがた揺れながら電車は走り出す。乗客は、同じ制服を着た生徒が何人かと、お年寄りが何人かだけ。  窓の外を流れていく景色。砂浜と、海をぼんやりと眺めていると、どうしても春月さんのことを思い出してしまう。空は夜からうってかわって、真っ青で明るい。  何といえばいいのだろう。  いや、話しかけるまでもなく、顔を合わせることを想像するだけでも気が滅入る。どんな顔をして教室に入ったらいいのだろう。 「はぁ……」  列車はトンネルに入って、窓の外は真っ暗になった。 「おはよう、瑠璃ちゃん」  そんな気持ちだったから、下駄箱で玉ちゃんに出会ったときは、なんだか心底ホッとしたものだ。 「玉ちゃん、一緒に教室いこ」 「うん。いいよ」  玉ちゃんはうれしそうに、眼鏡の奥の目を細めた。  階段を上って二年生の教室に行くときも、廊下を歩いているときも、いつ春月さんにばったり出会ったらどんな顔をしようかと考えていた。だけど教室の前まで来ると、開きっぱなしの扉から、あの亜麻色の髪の毛が見えた。人もまばらな朝の教室に、春月さんはすでにいた。一番後ろの席に座って、机の上に両腕を乗せて、窓の外を眺めている。 「瑠璃ちゃん、やっぱり気になるの?」 「え?」 「春月さんの……昨日言ってたこと」 「あ、うん……」  むしろ状況はさらに悪化している。  クラスメイト達が教室に入ってきて、談笑している中でも、どこか春月さんを遠巻きにするような空気は強かった。話しかけるどころか、彼女を避けようとしているようにも感じられる。昨日、教室で聞いた春月さんの言葉は、自己紹介のあいさつと、「言いたくない」だけだったが、たったそれだけで彼女の印象は決まってしまったようなものだ。 「はぁ……」 「どうしたの、瑠璃ちゃん。ため息なんて」 「そりゃ、わたしだってため息つきたいときもあるよ……」  そんなわたしの背中を、どんっと叩く手がひとつ。 「こらこら。朝からため息なんて、辛気臭いことしてんじゃないよ羽山ちゃん!」  振り返ると、四月なのに日に焼けた肌と、対照的な白い歯をにかっと見せて笑う女子がそこにいた。地味にひりひりと痛い背中をさすりながら、わたしは軽く挨拶をした。 「お、おはよう八石(はちこく)さん」 「おはよう羽山ちゃん、それに倉守ちゃんも」 「お、おはよう……」 「な~に、元気ないなあ。もっとしゃきっとしましょう、朝なんだから!」  この元気な人の名前は八石(はちこく)美琴(みこと)。わたしと玉ちゃんとは同じ中学の出身で、当時から女子バスケの名プレイヤーとして名をはせていた。この高校に入学してからは、持ち前のプレーでまったく無名だった女子バスケ部の大型新人として、実に数十年ぶりに県大会ベスト4までチームを導いたという伝説の持ち主だ。  中学の時から、特別仲良しというわけではなかったけれど、この人は老若男女問わず大体の人に対してこんな感じだ。おかげでわたしも、なんとなく気安く話せる人みたいな風に感じていた。 「今日は朝練だったの?」 「そう! 春の大会でもバッチリ活躍して、優秀な新人を獲得しなくちゃいけないからね。例えば……」  八石さんはにーっと笑ったまま、窓際の一番後ろの席に目を向けた。――春月さんが、さっきと同じ姿勢でぼんやり外を見ている。 「春月さん?」  ふふん~っと鼻歌交じりに笑う。八石さんは、ずんずんと長い足で大股にその席に歩み寄ると――  どんっ、と机に手をついて、正面から、ぐいっと春月さんに顔を寄せた。 「ねえ。春月ちゃん、だっけ?」  教室中に聞こえるような大きな声で、八石さんは言った。  春月さんは青い目を丸く見開いて、指を耳元にやった。また、イヤホンで音楽を聴いていたらしい。それを外して、手の中に握りしめて、八石さんを見つめ返した。  教室のみんなが、そのふたりに注目した。八石さんはそれを受け止めるかのように、にっこりと笑った。 「バスケ興味ない? 春月さん、前の学校では何か部活はやってた? ううん、もしやってなくても、一緒にバスケやろうよ! あなたすごく背が高いし、それに運動神経よさそう。ね、どうかな? 今日の放課後、見学だけでも?」 「行かない」  やっぱり、短くすげない返事だ。  八石さんはにっこり笑った。 「ん~そっか、残念。それだけ! ありがとうね」  春月さんの髪の毛が少し揺れた。うなずいたように見えたのだ。すぐに彼女はイヤホンを耳につけて、また窓の外に目をやった。八石さんはけらけらと笑いながら、ほかのクラスメイトと何かおしゃべりをしている。 「は、八石さん……すごいね」  玉ちゃんが目を丸くしていた。  人見知りの子犬みたいに、ぷるぷる震えている。ああいうタイプが一番苦手なのだ。  昼休み。みんな昼食のお弁当を広げたり、あるいは学食や購買、コンビニに行ったりする。わたしもばあちゃんが作ってくれたお弁当を机の上に広げた。 「瑠璃ちゃん。一緒に食べよ」  玉ちゃんがやってきて、机をくっつけてお互いにお弁当を広げる。 「玉ちゃん、それ、自分で作ってるの?」 「うん、そうだよ」 「すごいなあ。わたしは早起きできないから……」 「瑠璃ちゃんのおばあさんのお弁当、いつもおいしそうだから羨ましいよ~」 「えへ、まあね……」  ちらっと教室の後ろをみると、ちょうど春月さんの机に八石さんが歩み寄っているところだった。 「春月さん! お昼、どうするの? よかったら、学食とか購買とか、案内しようか」  春月さんはまたイヤホンを耳から取り外して、八石さんをまっすぐ見つめた。 「別に、いい」 「なに、ダイエット中? 食べないダイエットって体に良くないらしいよ! 少しはお腹にものを入れておいたほうがいいんじゃないかな」 「お腹、空いてないから」 「あ、そうなの? 朝いっぱい食べてきた感じ? じゃあ、無理して食べないほうがいいかもね」  軽く手を振って、八石さんは自分のお昼を食べに行くのだろうか、教室を颯爽と後にした。春月さんは手に握っていたイヤホンをまた耳に着けて、ぼうっと窓の外を見ている。 「八石さん、すごいなあ……」  玉ちゃんがしみじみと呟きながら、水筒の中のあたたかいお茶をすすった。なんだか親戚のおばちゃんみたいだ。  午後は選択科目の授業がある。うちの高校では、二年生は『音楽』か『美術』のうちひとつを選んで履修することになっている。今日はそれぞれの簡単な説明を受けて、来週までにどちらを履修するか選ばなくてはならないらしい。 「瑠璃ちゃん、どっちにする?」  ホームルームを終えるなり、玉ちゃんが尋ねた。 「玉ちゃんは?」 「う~ん……どっちもどっちかな」 「わたしも。どっちもどっち」  正直、絵を描くのも、合唱するのも、どちらもそれほど好きじゃない。人数調整で勝手に割りってもらったほうが気が楽だ。  わたしは春月さんのほうを見た。彼女は鞄に教科書をしまって、今まさに立ち上がって教室を出ようとしているところだった。彼女の耳には、白いイヤホンが引っ掛かっている。コードは制服のポケットの中につながっていた。そして足音を立てることもなく、すすすっと、浮かんでいるかのように彼女は教室を出て行った。  わたしは玉ちゃんのほうに向きなおった。 「でも、そうだなあ。音楽がいいかな。美術って、なんか筆とか絵の具とか買わないといけないんでしょ? 面倒くさそう」 「そうだね」 「でも、音楽は筆記のテストがあるっていうしね。美術だったら、作品を仕上げて提出すれば単位はもらえるんでしょ?」 「うん。でも、音楽の筆記テストってなにするんだろう?」 「作曲家の名前とか、書かされるんじゃないかな?」  わたしは、教室を出て言ったばかりの春月さんと出くわすのが嫌で、もう少し教室の中で時間をつぶしていたかった。 「ごめん、倉守さんいる?」  ところが、教室の入口から玉ちゃんを呼ぶ声がした。眼鏡をかけた男子生徒だ。ネクタイの色からするに、三年生の先輩だろう。 「あ、はい」 「今日、図書委員の会議だけど。そろそろ始まるよ?」 「ああっ、す、すみません! すぐ行きます! ごめん瑠璃ちゃん、また明日ね」 「あ、うん……ばいばい」  玉ちゃんは鞄をまとめて、慌てて教室を出て行った。廊下の向こうからばたばたというあわただしい足音が響いてくる。 「……はぁ」  ひとりで残っていても仕方がない。わたしはおとなしく帰ることにした。
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