第1話‐⑥

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第1話‐⑥

 寝ているばあちゃんのことを考えている余裕なんかなかった。わたしは春月さんを浴室に押し込んだ。どろどろのびしょびしょに汚れていた制服は、明日か明後日にでもクリーニングに出さないといけないだろう。その間にわたしも濡れた服を脱いで部屋着に着替え、それから春月さんが着るための服を用意した。――ぜったい春月さんにはサイズが小さいだろうけど、仕方がない。 「春月さん、着替え、ここに置いておくよ――」  と、声をかけたときに気が付いた。浴室から水音がしない。 「は、春月さん? どうしたの?」  返事がない。わたしは恐る恐る、浴室の扉を開いた。春月さんは泥だらけのまま、そこに立っていた。髪の毛からしたたり落ちる水は、さっきの雨だろう。  当然、何も身に着けていないので、ぶるぶると震えている。 「ど、どうしてシャワー出してないの……?」 「使い方……分からない」 「使い方って……そんなの、ここをひねればいいだけだよ」  蛇口をひねると、シャワーから熱いお湯が出てくる。春月さんの真っ白な肌が、みるみるうちに赤らんでいく。 「シャンプーはこれで、これがトリートメント、こっちがボディソープ。で、タオルはこれを使っていいから」 「……、」 「だ、だいじょうぶ?」 「扉、閉じて……」 「あっ、ごめん!」  わたしは、慌てて浴室の扉を閉じた。  ――はぁ。何やっているんだろう、わたし。  春月さんはすぐに出てきた。わたしはバスタオルを押し付けると、わたしの部屋で待っているようにと告げて、交代でシャワーを浴びた。わたしも泥だらけだったのだ。でも、春月さんをひとりにしておくのも不安なので、すぐに浴びてすぐに出た。  部屋に戻ると、春月さんはおとなしく座って待っていた。わたしはお盆に乗せた湯飲みを机に置いて、ポットを差し出した。 「紅茶でいい? それともコーヒーのほうが好き?」 「どっちもいらない」 「あ、そう……」  春月さんは、いつも通りの無表情で答えた。けれど、いつもよりもずいぶん、しおらしいというか、柔らかい雰囲気を感じる。わたしは自分のコップに紅茶のティーバッグを入れて、お湯を注ぎ、もうもうと立ち上る白い湯気を眺めていた。  わたしの部屋に、春月さんがいる。  とても不思議で、非現実的な光景だった。 「ねえ……何してたの? あんなところで」  春月さんは答えない。 「こんな土砂降りの日に、傘も持たずに……ううん、今日だけじゃなくて、毎日あそこにいるよね。あそこで何をしているの?」 「あなたには……関係ない」  むか。  むかついた。 「関係なくないよ」  いつもより弱々しい口調のせいか、わたしはつい、強い口調で言い返してしまっていた。春月さんはわたしのほうを見た。真っ青な瞳が、いつも以上に淡く見える。 「あなたの体、まるで氷みたいに冷たかった。風邪引いちゃったらどうするの? それに、雨も強くなってきてる、雷も鳴ってるし、波も高くなってきてる。春月さん、びしょ濡れであのまま突っ立ってるつもりだったの? そんなの見たら、放っておけるわけないじゃん」 「……、」 「それに、あそこはね、わたしの散歩コースなんだよ。毎日、あそこを歩くのが好きなの。小さいころから、ずっと……だから、春月さんがいきなり、あそこに現れたときは、すっごく驚いたの。あそこに人が来ることなんて、めったにないんだから。それに、春月さん、その……とても、きれいだったから……それに、クラスメイトでしょ? 関係なくなんか、ないよ、わたしたち……関係なくなんかない」 「……、」 「ね、春月さん……話そうよ。もちろん、嫌なら、無理にとは言わないけどさ……」  ずっと黙ったままなので、わたしはだんだん不安になってきて、最後のほうは尻すぼみになってしまったけれど、でも、言いたいことを言えた気がする。 「嫌なんか……じゃ、ないよ」  すると、春月さんが弱々しく、か細い声でつぶやいた。 「え?」 「嫌じゃ、ない……苦手、なの。誰かと、話すの……」 「苦手?」  春月さんは目を伏せてうなずいた。  ――わたしは、なんだか目の前にいるのが、春月さんとは思えなかった。  夜の波打ち際にたたずむ、美しい妖精の面影は、そこにはなかった。ただ、背が高くて、髪の毛がきれいな、色白の女の子が、目の前にいる。そう感じた。ううん、女の子というよりも、むしろ――雨に濡れて震えている、小さな動物のように感じられた。  ダァーン!  やにわに、ものすごい轟音が、すぐ近くから聞こえた。  壁や柱や梁がぎしぎしと震え、軋む。滝のような雨音が、一瞬かき消されてしまうほどの衝撃だった。窓の外が真っ白な光で染まり、反対に、部屋の電気が消えた。 「やだ、ブレーカー――」 「うぅ……!」  小さな悲鳴が聞こえる。  春月さんが、両手で耳を抑えて、小さくうずくまっていた。 「だ、大丈夫、春月さん?」 「嫌……、聴きたくない……」  ドォーン! と、また雷が近くに落ちた。家が軋み、震える。 「うぅ……やめて……やめて……!」  わたしは、春月さんの頭を胸に抱き寄せて、ゆっくり、髪の毛を撫でた。ぶるぶる震えている彼女の体を、できるだけ優しく、傷つけないように…… 「大丈夫、大丈夫だよ……」 「う……」 「だいじょうぶ、怖くない……だいじょうぶだからね……」  ――真っ暗な部屋の中で、春月さんの体温を感じながら、わたしは思い出していた。  こうして震えているとき、わたしも、こうやって慰めてもらったことを。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」 「……、」  春月さんは、少しずつ落ち着きを取り戻していき――  その心模様を写し取るかのように、あれだけひどかった雨は、急に静かな小雨に変わっていった。  春月さんからは、冷たくて、ちょっと塩辛いような――海と森の香りがした。 「うーん……ブレーカーは上がってるのに、どこも電気がつかないとなると……」  さっきの、ものすごく近くに落ちた雷――おそらく、どこかの電柱に落ちるか何かして、電線が切れてしまったのだ。そうなると、もう打つ手がない。わたしはスマートフォンのライトをかざしながら、狭い階段を、足を踏み外さないように少しずつ上っていく。  時刻は朝の三時。  もう雨はすっかり上がっているが、こんな遅い時間に春月さんを家から放り出すわけにはいかない。 「お待たせ。大丈夫、春月さん?」  部屋に戻ったとき、春月さんは窓の近くに立って、空に目を向けていた。  ほんのわずかな夜空の光――星も月も出ていない、天の光。それに照らされた春月さんの姿は、蛍のようにぼんやりと、真っ暗な部屋の中に浮かび上がっていた。 「電気、しばらくつかないかも。もう平気?」  小さくうなずくのが見えた。わたしは、春月さんの邪魔をしないように、ベッドに腰かけた。 「よかったね、雷、おさまって」  無言。 「あ……眠くない? わたしは平気だから、ベッド、使っていいよ……って、人のベッドで寝るのって、落ち着かないかな。ちょっと待ってて、隣の部屋に使ってない布団が――」 「いらない……だいじょうぶ、だから」 「そう……?」  わたしは、重電の切れかけたスマートフォンを枕元に放り投げて、春月さんの後姿を眺めた。  しばらく、お互いに何を言い出すこともなく、黙っていた。わたしはちっとも眠くなかったし、春月さんを放って眠ることもできなかった。春月さんは立ったまま、動こうとしない。  わたしは、無理やり話題を作ったりせずに、ただ春月さんがそこにいるのを感じていた。彼女を見て、彼女の薄い呼吸を聞いて、彼女の存在を感じていた。  ――けど、わたしは狭い部屋の中で、重い沈黙に耐えきれるだけの胆力を持っていなかった。 「そ、そうだ、春月さん、家に連絡しなくて大丈夫? ほら、制服、汚れちゃったし……それに、その部屋着のままで外に出ていくわけにもいかないじゃない?」 「家……?」 「それに……そもそも夜遅くまで帰ってこなかったら、親が心配してるんじゃない? 電話とか、したほうが……」 「いない……から」 「え?」 「親は……いない。電話も、持ってない」 「あ……そ、そうなんだ。それじゃあ、ひとり暮らし?」  小さくうなずく。  そして、また沈黙。さっきまでとは違って、なんだか重苦しい雰囲気になってしまった。 「あのね、わたしも……親、いないんだ」  無言。何を言っても気まずくなりそうだけど、黙っているよりはいいと思って、しゃべり続けた。 「だからね、ばあちゃんと暮らしてるの、お父さんの母親……小さいころにね、わたしが一歳か、二歳のときに、すごく大きな地震があって……津波に飲まれちゃったの。その時は、今とは違う、もっと海沿いの家に住んでて……お父さんとお母さんは、そのまま流されて、帰ってこなかった。けど津波が引いたとき、わたしだけ、ぽいっと砂浜に打ち上げられてたんだって。瓦礫や、ゴミだらけの砂浜の真ん中に、ぽいっと。誰かに置いて行かれたみたいに」  無言。 「それでね、昔は、雨が降ったり、水をかぶったりするだけで、パニックになって泣いてたんだって。津波に飲まれて、海に引きずり込まれたときのことを、思い出してさ。でも、そのたびにばあちゃんが、こうやって、頭を抱いて、慰めてくれたの。『だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、怖くないよ』って。わたし、もう水は平気だし、その時のことも覚えてないんだけど……ばあちゃんにこうやって、慰めてもらったときのことは、よく覚えてるんだ」  無言。 「……って、あんまりしないほうがいいかな。こういう話……」 「そう……なんだ」 「え?」  春月さんの青い瞳が、わたしのほうをまっすぐ向いていた。  すると、彼女はゆっくりと、幽霊みたいにわたしのほうへ歩み寄ってきた。そして、わたしの隣にそっと座ると、わたしの手を取って、胸のほうへ引き寄せた。  春月さんの冷たいほっそりした両手に包まれた、わたしの右手に、とくん、とくん、と、心臓の音が伝わってくる。 「あなたの、声……すごく、きれいなの」 「声……?」 「真っ青で……深くて……でも、底のほうで、きらめいてるの」  春月さんはまっすぐに、わたしのほうを見つめている。 「さっき、抱きしめてもらったとき……すごく、懐かしい感じがした。うれしかったの。優しい波に揺られているみたいな……包まれているような……」  そして、わたしの右手をきゅっと強く握る。 「あなたに触れていると、すごく、落ち着く。ざわざわして、反響しあっていた音が、調っていくのを感じる。あたたかくて、やさしい感じ。とても、懐かしい――」  どきっとした。  春月さんは、笑っていた。薄く、微笑んでいた。頬がうっすらと赤らんで、青い瞳が細められ、深く輝く。  すると、春月さんはゆっくりと頭を揺らして、わたしのほうに頭をもたれかからせてきた。 「ちょ、ちょっと……春月さん?」 「いっぱいしゃべったから……疲れちゃった」 「ええ~?」  すると、春月さんはそのうちに、すうすうと寝息を立て始めた。 「ど、どうしよう……」  と言いつつ、眠っているのを起こすのも申し訳ない。わたしはベッドに腰かけたまま、膝の上に春月さんの頭を乗せて、眠っている彼女を見守った。亜麻色の髪の毛を指ですいたり、頭をなでたり、背中をさすったり――  なんだか、猫をかわいがっているみたいだった。  次に太陽が昇ってくるまで、わたしはそうしていた。
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