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 一か月前、縁と住んでいた家を出てすぐ、周は豆ノ島に旅立ったのだと言う。  この島に訪れて最初に行ったのは、よく客を取らされていたという庄野の旅館だった。すっかり寂れて小汚くなっていたが、元気に営業していたと周は笑った。次に、周がかつて両親と共に住んでいたアパートの跡地、林田の屋敷を回った後、最後に縁と出会った図書館を訪れたのだと語る。 「なんかさぁ、色々なくなってたり、変わったりしててびっくりしたけどさ。ここだけは残っていてよかったなぁ。俺にとって、一番大切な場所だから」  周は当時を慈しむように微笑む。いつもと変わらない穏やかな口調だが、どこか淡々としていた。 「それで、しばらくこの島をフラフラしてたんだ。ここは良い思い出も嫌な思い出も、たくさん詰まった場所だから、なんとなく離れがたくて一か月が経っちゃった。悠介にも、謝りに行かないとなぁ……。あいつには、たくさん世話になったから。でも、何されるかわからないから、このまま逃げちゃおうかな」  クスクスと楽しそうに笑う周の瞳は、ずっと地面に向けられている。話をしている間、周は一切こちらを見ない。縁は周の手を握ったまま「それがいいかもね」と相槌を打つ。 「ねぇ、えんちゃん。さっきの電話、悠介でしょ?」 「え?」 「俺が消えたら、最初にえんちゃんは悠介に連絡すると思ったんだ。どうせ、俺があいつのところに居るって嘘つかれたんでしょ?」  図星だ。驚く縁に周は「あいつ、結構単純なんだ」と笑いながら答える。 「あいつ、回りくどくて一見わかりにくいんだけど、慣れればわかりやすい奴なんだ。だから、えんちゃんから遠ざけていた。会えば絶対に余計なことをすると思ったから。ま、実際そうだったんだけど。でも、そんなあいつだから救われたし、依存しちゃってたんだよなぁ」  床に視線を落としたまま、周は少しだけ目を細める。悠介を語る周の横顔が妙に綺麗で、縁はやはり悠介のことは一生好きに離れないと確信した。 「でも、本当にえんちゃんが来ることは予想外だったなぁ。単純そうに見えて、何するかわからないよ。いつも」 「それは、貶してるの?」  困惑気味に聞き返す縁に、周は「まさか」と笑う。 「誉め言葉だよ。俺は、そんなえんちゃんが好きだったんだから」  だった、という部分を強調して話す周を、縁はジッと見つめる。俯いたままの顔は、落ちて来た前髪で隠れて見えない。ずっと握ったままの手は強く繋がれたままだ。縁は空を仰ぎ「ねぇ」と口を開く。 「私もさ、ここには清算しに来たんだ。周とのことを」  周の身体が、びくりと震えるのがわかる。縁は周の手を握ったまま話を続ける。 「周の事を、もう一度ちゃんと知ろうと思ったんだ。周がたくさん辛い思いをしてきた過去を全部受け止めて、理解するために。ちゃんと周と向き合って、私の初恋を終わらせるために」  ゆっくりと、縁は周に言い聞かせるように話す。周は俯き黙ったままだ 「でもね、無理だった。忘れられるわけがない。周の事を知れば知る程、今の周に会いたくなる。話したくなるし、触れたくなる。一緒に、あの家に帰りたくなるんだ」  周は顔を上げない。ただ黙って俯いている。そんな彼の頭を見下ろしながら「ねぇ」と問いかけた。 「周はどうだった? 私との毎日は、忘れたくなるほど辛かった? 《普通の恋愛》なんて出来ないから、私と一緒に居るのは、苦しかった?」 「……辛かった」  周は涙混じりに答えると、ゆっくりと顔をこちらに向ける。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、周は「苦しいに決まっている」と嗚咽混じりに言葉を繰り返す。 「えんちゃんが婚活を始めたって聞いた時は、悠介の家で泥酔するほどお酒を飲んだ。誰かとデートをするたびに気が狂いそうだったし、失敗して帰って来たらホッとした。婚活を辞めたって聞いた時は本当に嬉しかったけど、それ以上に、えんちゃんが早く別の誰かと結ばれることを望んでいた。早く、諦めたかったから」  周の瞳から零れ落ちた涙は、彼のジーンズにポタポタとシミを作り続ける。縁は「そっか」と頷く。 「私は、楽しかったよ」  周の独白に、縁はポツリと呟く。 「死にたくなるほど辛い時もあったけど、一緒に過ごした日々は愛おしくて仕方がないんだ。私にとって周との時間はかけがえのないもので、生きている証だったから」  縁は周を強く抱きしめる。周は涙で縁の肩を濡らしながら「駄目だよ」と繰り返し呟く。 「俺なんかじゃダメなんだ。ちゃんとした仕事してて、家がまともで、こんな汚い過去なんてないような、そんな人じゃないと」 「私は周が良いんだよ」  縁はそう叫ぶと、周を抱きしめる腕に力を籠める。 「周も、そうじゃないの? 私が好きだから。私が良いから、ここに来たんでしょう? 私の事が忘れられないから、一か月もこの島に居たんでしょう?」 「でも、駄目なんだよ……。俺なんかじゃ……」  縁の腕の中で、周は何度も「駄目、駄目」と言い続ける。「そんなに泣いてるくせに、よく言うよ」と周の背中を摩りながら呆れたように笑った。 「柚李が言っていたんだ。人の数だけ恋愛のパターンがあるから、普通も異質もない。好きって感情があれば、恋愛なんだってさ」  好きって気持ちがあれば、もうそれだけで恋愛でしょ。 周の背中を摩りながら、縁は柚李の言葉を思い返す。自分達は難しく考えすぎていたのだと、縁は小さく笑う。周は答えず、縁の肩に頭を預けて泣くだけだ。 「周。私にとって一番大切な場所はもう、この図書館じゃない。周と一緒に暮らしたあの家なんだ」  縁は周の両肩に手を置くと、ゆっくりと引き離す。周は涙に濡れた真っ赤な瞳をこちらに向けていた。 「周が好きです。大好きです。この先も、一緒に生きてください」  縁は真っ直ぐに周の瞳を見て伝える。周は目を瞬かせた後、両手で涙を乱暴に拭って「駄目だよ」ともう一度呟いた。 「この先、俺と一緒に居たらたくさん嫌な思いをするかもしれない。恋人らしいことも出来ないんだよ?」 「だから、そんなことはどうでも」 「それでも、いいの?」  縁は、ゆっくりと周の顔を見返す。周は顔を真っ赤にしたまま、再び俯いた。正面からの告白に真っ赤に顔を染める想い人がおかしくて、縁は大きな笑い声を上げる。 「なんで照れてるの? 出ていった時、私にディープキスしてきたくせに」 「いや、あれは……。ごめん。他に方法が思いつかなくて」  再び顔をあげなくなってしまった周の肩から手を離し、縁は周の両手に自分の両手を重ね「まぁ、なんでもいいよ」と言って笑った。 「手さえ繋げれば、充分だ」
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