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「あれ? えんちゃんだ。おかえり」  暖かな空気と共に、呑気な声が部屋の奥から聞こえてくる。続いて、扉がガタリと音を立てて開き、百鬼周がひょっこり顔を出した。今年で二十三歳になったと言うのに、あどけなく幼い少女のような顔をしている。くりくりとした大きな丸い瞳を更に丸くして、不思議そうに首を傾げている。 「今日、ご飯食べて帰るって言ってなかったっけ? 早かったね」  周は悪気のない口調でそう指摘した後「あ」と小さく声を上げる。そして気まずそうに苦笑いを浮かべた。不破縁は大きく溜息を吐き出した後「そうだよ」と不機嫌そうに口を開く。 「今回も失敗。もう、大失敗。あからさまにヤリモクだったから逃げて来た」  そう言って縁は、大袈裟に溜息を吐き出しながら靴を脱ぐ。周は「あららぁ」と苦笑いを浮かべた後、今度は同情するように眉を《ハ》の字にした。 「まぁ、付き合う前にわかって良かったじゃん。あ、そうだ。小腹、空かない? 夕飯の味噌汁、残ってるよ」 「いや、今は腹を満たすより酒で全ての鬱憤を流したいよ」 「そう言うと思ってさ」  周は手でおちょこの形を作り、口元でクイッと何かを飲む動作をする。そしてニヤリと口角を上げて得意げな笑みをこちらに向けた。 「買って来たよ。《初恋檸檬》」 *** 「本当に最悪だったんだよ」  縁は、ほんのりレモンの香りが混じった酒臭い息を盛大に吐き出す。 「メッセージ段階じゃ普通だったんだよ? でも、会ったら全然話が盛り上がらなくてさぁ。目も合わないし。だからさっさとご飯食べて帰ろうかと思ってたんだけど、外出た瞬間に無理矢理手を繋いできて、ホテル街の方に誘導しようとするの。突き飛ばして逃げて来ちゃったよ。ホント、年明け早々、最悪」  声を荒げながら捲し立てるように喋った後、檸檬チューハイ《初恋檸檬》の缶を思い切り煽る。何か嫌な事があると、二人の共有スペースであるキッチン付きのリビングで、初恋檸檬で酒盛りするのは恒例行事だ。ちびちびと初恋檸檬を吞みながら、周は「何もなくて良かったよ」と苦笑いを浮かべたまま頷く。縁は「まぁ、もういいけどね」と不貞腐れた。 「さっき、また別の人との約束を取り付けたから。次だよね、次」 「相変わらず展開が早いねぇ……。どんな人?」 「今日のヤリモク男を見つけたマッチングアプリで出会った人。二週間くらいやり取りしてるけど、まぁ、普通かなぁ。ちょっと自慢話が多いけど。あと、イケメンではないけど、写真で見る感じはシュッとしてる」  縁がそう説明すると、周は怪訝そうな顔をこちらに向け、「大丈夫なの? その人」と控えめに指摘した。 「さぁ、どうだろ? やり取りは普通でも、今日みたいなパターンもあるし。見た目も、中身も、会ってみなきゃわかんないなぁ」  そう答えた後、縁は缶の底に少しだけ残った初恋檸檬をグビッと飲み干す。そして、心配そうに縁の横顔を見つめる周に「大丈夫だよ」と鬱陶しそうに言った。 「またヤバい奴だったら、すぐに帰って来るから」 「いや、でも……。うん」  周は少し口籠った後、言いにくそうに口を開く。 「あのさ、えんちゃん。そんなに焦らなくても、きっといつか運命の人が現れるよ。それに、まだ二十代だしさ」 「もう二十九だよ!」  我慢ならない、と言った様子で縁は空になった缶を勢いよくテーブルに叩きつける。ダン、と手とテーブルが激しくぶつかる音がして、周は慌てた様子で「ちょっと、大丈夫?」と縁の手を覗き込む。縁はズキズキと痛む手を摩りながら「あのね、周は若いからそんなことが言えるんだよ」と鼻息を荒くしていた。 「もう三十! あと一年足らずで三十歳! まだ二十三の周にはわからないだろうけど」  興奮気味に捲し立てた後、縁は何かに気が付いたように周の手首に目を止める。周は、急に黙って自分の手首を見つめ始めた縁を不思議そうに見つめた後「あぁ」と納得したように頷いた。 「これ?」  周は苦笑いをしながら、袖を捲って手首を見せる。彼の手首にくっきり巻き付いた縄目の痣に、縁は「うわぁ」と眉を寄せた。 「めちゃくちゃ痛そうなんだけど。何の傷? ちゃんと手当てした? オロナインまだあったよね」 「塗らなくても平気だよ。見た目ほど痛くないし」 「駄目だよ。周、モデルなんだから。傷は綺麗に治さないと」  そう言って縁は、机の中心に置いてある竹籠を引きずるようにして取る。そして、蓋を開いて中からオロナイン軟膏を取り出した。スパチュラで白く硬いクリームを掬った後、周の手首に乱暴に塗り付ける。周は「ちょっと。痛いよ」と笑った。 「この傷付けたの、例のセフレのカメラマンでしょう? モデルに傷を付けるなんて最低」 「うーん、まぁ合意だし。それに、ちょっと、その……。盛り上がりすぎただけだから……」  乱暴な手当てを受けながら、周は恥ずかしそうに俯く。何度も脱色して金色になっているのにも関わらず、サラサラと輝くショートボブの髪の隙間から覗く耳はどことなく赤い。彼の頭頂部を見つめながら、縁は「あぁ」と呆れたように頷いた。 「盛り上がりすぎたって、そういう事ね。程々にしなよ」  手当を終えた縁は、呆れ顔のままスパチュラに残った軟膏をティッシュで丁寧に拭き取る。周は「うぐぅ……」とバツが悪そうな呻き声を上げた。 「もうすぐイベントだから、お互いピリピリしてて、その、色々と溜まってたんだよ。でも、しばらくは作業が忙しくてヤる暇もないし……。あ、そうだ。今日撮った写真もね、来週末のイベントで販売するんだ」  この話を続けるのは恥ずかしいようで、周はどうにか話題を変えようとする。縁もこれ以上、下世話な話は聞きたくなかったので、話を追求することをやめて「へぇ」と短く頷いた。 「イベントねぇ……」  握手会やサイン会のようなイベントをするのだろうか。有名な美少女アイドルのように、にこやかにファンと握手する周や、大御所作家のように本にサインをして上品な笑みを浮かべる周を想像して、縁は小さく噴き出す。 「たまには行ってみようかな。周のイベント」 「えっ」  縁の呟きに、周は目を大きく見開いた後「駄目、駄目」と激しく首を横に振った。あまりに強く拒否をする周に、縁は「そんなに嫌がらなくても」と唇を尖らせる。 「だって、周。モデルの仕事の事、何も教えてくれないじゃん。写真だって見せてくれないし、芸名だって教えてくれない」 「だって恥ずかしいし……。それに、前も言ったけど、モデルって本当に、趣味の延長みたいなものだから。イベントだって、わざわざ来てもらうような大したものじゃないんだよ」  どうにか誤魔化そうと必死に言葉を紡ぐ周を見つめながら、縁は小さく息を吐く。何故、触れられたくない話題をわざわざ口にしたのか。墓穴を掘り続ける周が段々哀れに思えて「わかったよ」と苦笑い気味に頷く。周は安心した様子で「うん、うん」と何度も頷いた。 「というわけで、明日から帰り遅くなるかも。先に寝ててね」 「了解」  短く頷いた後、急に眠気が襲ってきて縁は大きく欠伸をする。程よくアルコールが回ってきたらしい。縁はゆっくりと椅子から立ち上がる。 「明日早いし、私はそろそろ寝るよ。愚痴、聞いてくれてありがと。周はどうする?」 「もう少し起きとくよ。ユースケから写真のサンプルが送られてくるって言ってたし」  ユースケ、というのは確か周のカメラマン兼セックスフレンドの名前だ。何となくその名前に腹立たしさを感じ、縁は「そう」と頷く。 「明日は程々にしなよ」  縁が嫌味っぽく続けると、周は顔を真っ赤にして固まる。溜飲が下がった縁は「おやすみ」と周に背を向け、こっそり笑った。
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