序章 syringa vulgaris

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序章 syringa vulgaris

懐かしい匂い。  一心不乱に神にと祈りを捧げる少女を、鼻腔を優しく刺激する甘い香りが現実の世界に引き戻していた。  沿道に咲き誇る青紫の花が、涙にまみれた少女の瞳には歪んで見える。ぼやけた乳白色に照らし映されている。  少女は静かに頭を上げる。天を仰いだ。澄み切った青空が走っている。ちぎれて、はぐれていく小さな雲が、目に見える速さで頭の上を横切っていった。少女の頬を滑る滴が大地に吸い込まれて消えていく。消え入りそうなほどに小さな声で「お母さん」と呟く少女の脳裏に浮かぶのは、追憶の日々。  敗国の少女は裁かれた。  がたがたと馬車の揺れる音が響く。長く続いた幽閉生活、その平穏を壊したのは、成長するにつれ開花する自らの美。  ハート型の葉っぱが朝露に濡れている。陽の光に反射してきらりと輝いていた。沿道いっぱいに咲き乱れたそれは、彼女の進む道を照らし出しているようだった。  ライラックの花。少女やこの国の人々は、リラと呼んでいる。毎年この季節になると街中はリラ色に染まり、その甘い香りに包まれる。花言葉は愛の最初の感情。淡い初恋などを示すのだが、少女の記憶に呼び起こされたのは、優しさに包まれた母の手のぬくもり。  一陣の風が木の葉を巻き上げながら駆け抜ける。金色をおびた、はしばみ色の少女の長い髪が、風に揺られてふわっと舞っていた。その瞬間に沿道から男達の歓声が沸き上がる。  あけぼの色の雲間にまたたく、暁の星のように美しい。この少女を形容するに、牢の番人達はそう例えていた。人形を連想させるような髪色。琥珀色の瞳。そして、この瞬間がそうさせるのだろう。少女の怯える姿に、未成熟の妖艶さが見て取れる。見物人達の興奮は絶頂に達していた。  今日の夕刻には、私は神様の坐す(まします)ところいる。お父さんもお母さんもそこにいる。少女は心の中で、何度も何度もそう呟いていた。
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