序章 syringa vulgaris

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 syringa vulgaris  高台広場にと続く階段を見上げる位置に、小さな噴水池がある。その中央には天使の像。その手には審判の日に吹き鳴らすとされるラッパを携えている。  噴水に水は流されていない。止められている。今は風も止んでいるため、噴水池にはさざなみ一つたってない。静謐だった。  自らの生きる力を信じて疑うことのない旅鳥達が、鏡の水面を駆け抜けていく。迷うことなく彼方の空にと消えていった。時の流れすら穏やかに感じる。  少女が涙でぐしゃぐしゃになっている顔を持ち上げる。最後の景色を、その目に焼き付けるかのように辺りを見渡していた。  檻車が止まる。ここから先は登り階段。馬車では進めない。再び風が吹き荒ぶ。木々がざわめいている。人々の歓声が怒声に変わり始めた。終末の時が近づいてきた。  誰かが奇声を発しながら鏡の池に飛び込んだ。一瞬にして水面の静寂は消え去った。広がる波紋が蜘蛛の巣のような輪を描いている。人々は待ちきれないのだ。ここ、聖都では処刑に先立って必ずおこなわれる儀式。  噴水池に飛び込んだ男がわめいている。興奮の絶頂に達していた。少女は虚ろな瞳を向けながら、その様子を眺めていた。水しぶきが舞い上がっている。中央にたたずむ天使の像の御顔を濡らしていた。  少女は瞳を拭い、手を組んだ。最後の祈りを捧げようとする。そして目を見開いた。息を呑み込む。言葉が出ない。絶望が全身を駆け巡る。神がお示しになったのだ。地上の奇跡。  無力な天使は泣いていた――  民衆は殺気立っている。狂っていた。時代は熱に浮かされている。そして、地上は病魔に蝕まれていた。歪んだ道徳が、汚泥のように降り積もっている。  檻車の扉が開かれた。錆びた金属の擦れる耳障りな音が響く。その直後に民衆が群がってきた。これより一時、少女の身柄は民衆達に委ねられる。  辱刑。これは法典にも記された合法的な刑罰。この聖都では火刑という、もっとも重い罪をきせられるような者には必ず執行された。  何をしてもいいのだ。決まり事は一つだけ。この後の火刑執行に支障をきたすほどの肉体的ダメージは与えてはならない。無論、殺してはならない。それを守らなかった者は罪になる。  それさえ守れば何をしてもいい。好きにできるのだ。刃物の使用も認められている。
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