第二章

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 父は、妹が自分の実の子ではなかったことを、私を含め誰にも言わなかった。表向きは、私にとってだけでなく、妹にとっても良い父親を続けていた。  私はその様子を見て、私がそうであるように、父もまた妹とはこれまで通り仲の良い家族でいたいのだと期待した。  だが、あの日の父の表情を見てしまった今となっては、もうそんな期待は抱けない。  父はきっと、そんな風には考えていない。  だったらなぜ、父は妹に対して、これまで通りの優しい父親を演じているのだろうか?  私は胸の内で、怖ろしい想像が膨らむのを感じた。  もしも父が、いつか妹への憎悪を行動に移すことを想定してこれまで優しい父親を演じ続けてきたのだとすれば、今日はまさにだ。  もし今日、妹が〝病死〟したとしても、きっと誰も父を疑わない。  周囲の人達はみんな、二人を仲の良い親子だと思っていて、そして妹の体の弱さを知っているからだ。  たまたまあの書類を見ていなければ、きっと私だって疑わなかったことだろう。  何も知らずベッドで休んでいた妹が父の手によって突然ベッドから引きずり出され、そのまま廊下を引きずられていき、そして雪の降り積もる庭へと放り出される情景がまざまざと目に浮かんだ。  優しかった父がなぜ突然そのような仕打ちをするのか理解できず混乱する妹の目の前で、庭と室内を隔てるガラス戸が閉じられ、鍵が掛けられる。  妹はガラス戸を叩き、自分の何が悪いのかも分からないまま泣いて謝り、鍵を開けてくれと父に懇願するのだ。父はその様子を、ガラス戸にぶつかってくる蝿でも見るような目で――あの誕生日の時のような冷たい目で、じっと見下ろしている。  やがてガラス戸を叩く音も、許しを請う声も弱々しくなっていき、そしてついに妹は力尽きる。動かなくなった細い体の上に雪が降り積もり、確実に死んだのを確認してから、父は妹の亡骸を室内へと引き上げ、雪まみれになった服を着替えさせて、元通りベッドに横たえる。  そして翌日、帰ってきた私に、さも悲しみ沈んでいるかのような顔でこう言うのだ。  昨夜、妹の容態が急に悪化した。雪のせいで救急車も呼べず、妹はそのまま死んでしまった――と。  あるいは父は、妹を屋外に放り出した後、戸を閉める前に、なぜ自分が妹を憎むのか、その理由を告げるかもしれない。  それを聞いた妹は父がけっして戸を開けてはくれないことを悟り、隣家に助けを求めるため、靴も履いていない足で降りしきる雪の中を歩き出す。  けれど、晴れて道の状態が良い時だって、一番近い家まで歩いて三十分はかかる道程だ。まして雪が厚く降り積もり、一歩毎に足が沈み込む状態では、ベッドから身を起こすのも辛そうだった妹にはとてもたどり着けないだろう。  何メートルも進まないうちに、妹は雪に足をとられて倒れ、そのまま再び起き上がることもできず――あとは、同じだ。  いくらなんでも、考えすぎだ。  自分でも、そう思う。  それでも不安は、まるで窓の外で降り続ける雪のように、溶けて消えることなくどんどん厚く積もっていく。  もう一度、家に電話をかけよう。もちろん、最初に電話に出るのはまた父だろうが、今度は妹にかわってもらうのだ。  妹の声を聞いて、まだ無事であることを確認できれば、少しはこの不安も和らぐに違いない。  そう思って電話を持ち上げようとしたところで、手が止まった。  もし自分の単なる取り越し苦労だったら――十中八九、そうなのだが――病気で寝ている妹を無理に起こすだけになってしまうというのもある。  今無事を確認できたところで、明日までずっと無事だという保証はどこにもなく、結局不安は消えないだろうというのもある。  しかしそれ以上に、もしここで妹が電話に出なかったらと考えると、今度はそれが怖くてたまらなくなったのだ。  シュレディンガーの猫の話を、思い出した。  生死を確かめるまでは、猫は生きている状態と死んでしまった状態の重ね合わせとして存在する。そして確かめた瞬間に、そのどちらか一方へと収束するのだ。  まだ確かめていない今、妹も生きている状態と死んでしまった状態の重ね合わせとして存在する。そして、私が電話をかけて確かめた瞬間にそのどちらか一方へと収束し、その収束先は死んでしまった方かもしれない。  もしかすると、私が確かめたその瞬間に、生きている状態の妹は消えてしまうのかもしれない。  そんな気がした。  確かめさえしなければ、生きた状態の妹が存在し続けてくれる。  そんな気が、したのだ。  父だって、確かめなければ良かったのだ。  確かめさえしなければ、自分が育ててきた子供が二人ともちゃんと自分の実子だった世界が、重ね合わせの状態で存在し続けてくれたかもしれないのに。  どうして、確かめてしまったのだ。  結局、私はその晩電話をかけられず、ついでにろくに眠ることもできなかった。  翌朝、目の下にひどいくまができている私の顔を見て「枕が変わると寝れないタイプ?」と聞いてきた友人に、私は寝不足のぼんやりとした頭で尋ねた。 「あのさ、シュレディンガーの猫の話ってあるじゃん?」 「え? う、うん……あるけど」 「あの実験に使われた猫ってさ、確かめた時、結局生きてたのかな。それとも、死んじゃってたのかな」 「……まさかとは思うけど、もしかして、ずっとそれ考えてて寝れなかったの……?」 「違う……いや、違わないかも」  友人は「違うのか違わないのか、どっちだよ……」と困惑顔で呟きつつも、答えを教えてくれた。 「生きてたわけでも死んでたわけでもないよ。だって――」
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