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囲炉裏の(ゆる)んだ炎を眺めながら女将の()れてくれたお茶を(きっ)していると、明け方に見た光景が幻であったかのように心が安らいでいくのを実感する。 「よかったらこれも食べんね」 一仕事終えて隣に座った女将が小鉢に盛られた漬け物を静香に勧める。塩辛いが、熱い(ほう)じ茶が口中の塩気を洗い流すともう一切れ、またもう一切れと食べたくなるほどうまい。 「ありがとう女将さん、だいぶ落ち着きました」 「そうかい、それなら良かった」 水仕事でがさがさに荒れた手を静香の手に乗せて微笑む女将。 (お母さんみたい) 子供の頃に母親に感じたような安心感を、初めて会ったこの老女に感じている。 「女将さん、あたしね」 「うん?」 「佐渡先生に呆れられるようなどうしようもない子で、遠野の事も何も知らないんだけど、今回遠野に来られて良かったです」 「あらあら嬉しい事を言ってくれるねえ、私も貴女に来て頂けて嬉しいよ。自分の家だと思って(くつろ)いでね」 「うん、ありがとう」 微笑みを取り戻した静香に女将がおもむろに切り出す。 「なんかねえ、変な事言うけどさ、誰も信じちゃくれないだろうと思って今まで誰にも言わないでいたんだけど、私も子供の頃に見た事があるんだよ、貴女を見てると今それを思い出して」 「見た? 何を?」 古い記憶に想いを()せるように、ゆっくりとお茶を飲みながら、 「山菜採りの最中に、森の中でね、大きな御屋敷と、その門前に佇む、諸肌(もろはだ)脱いだ赤ら顔の大男」 「え、それってマヨイガとーー、山男?」 静香の問いに女将は目を(つむ)り、 「ふふっ、どうなのかねえ。でもね、本当に立派な御屋敷だったんだよ、この辺じゃ何軒も無いような、地主さんやお金持ちしか住めないようなね。黒塗りの大きな門には、金の装飾がされてて、奥に見えるお庭には立派な松の木が立ってた」 東京に暮らす静香には想像もつかないような広い敷地などイメージが湧きづらいが、田舎の者ですら驚くような大きさなのだろう。 「すごいね、見てみたいな」 「まあ、子供の足じゃあ近い場所でも遠くって記憶してるもんだしさ、大人の人の背丈だって大きく感じるものだもの、案外ご近所で(まき)でも割ってた旦那さん見かけただけなのかもって」 「ふうん、でも」 「ん? でも、なんだい?」 「一緒に来た友達も言ってたんだけどね、そういうものが実在してるって思わせてくれるのがこの遠野っていう場所なんだよって。だから女将さんが見たものが、マヨイガや山男であって欲しいって、何となくあたしはそう思う」 「ほんとにこの子は嬉しい事を言ってくれるねえ。娘にしたいくらいよ。私もこれからはそう信じる事にするよ、ありがとうね」
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