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ふと気付くと、囲炉裏の炭はもう真っ白な灰になっていた。
(ん…、あたし、眠ってたんだ)
隣に座っていた女将は仕事に戻ったのだろう、部屋にいるのは静香独りだった。縁側に目を向けると、陽は西に傾きかけ、部屋の入り口辺りの床板を弱々しい冬の陽光が照らしている。
(そろそろ皆帰ってくる時間かな)
確か「曲がり屋」という、人が住む母屋と、農耕馬を繋いでおく厩戸がくっついたL字型の家屋を見学に行っているはずだ。
あたしも行きたかったなーー
と、思えるようになっている自身の心情の変化に、戸惑いを覚える。何故だろう、この遠野の地に足を踏み入れた時から不思議な感覚が静香の心に芽生えていた。
来るべくして、自分はここに来たのだ。この、遠野の地に。
そんな確信のような感情を奇妙に感じながら、そろそろ火の側を離れて動き出そうとして、動けない自分に気付いた。
(あれ?)
脚が痺れて動けない、というような類いのものではない。脚だけでなく、腕も腰も首さえも、少しも動かせない。目だけが辛うじて動かせるだけだ。
今まで経験した事は無いが、話としては聞いたことがある。
(これって…、金縛り?)
そう思って周囲に気を配る。民宿の中に、何故か全く人の気配が無い。火の側にいるにも関わらず、冷たい汗が背を伝ったのは、そんな中で突然に囲炉裏を挟んだ対座に黒い気配が現れたからだ。
(誰?)
音もなく、その気配は宙に浮いた。もはや人間ですらない。
「九郎が待ちかねている」
まるで鴉が人の声を発したような、嗄れてざらざらとした耳障りな声に、静香は思わずその姿を直視した。
修験者が纏う山伏の僧衣を着込んだ痩せた体躯。だがそこから伸びた手足は人間のものではなかった。猛禽のような、獲物に深く突き立てて離さない鋭い爪を持った鳥の手。黒い顔には飢えた獣の鋭い眼、口があるはずの部分には突き出した嘴、そして背中から生えた、大きく黒い羽根。
(えっ…、これ、鴉天狗!?)
咲がしおりの挿し絵で書いていた妖怪の特徴を備えつつ、挿し絵にある可愛らしさを全て取り払って不気味さで塗り潰したような存在。
「行くぞ」
そう呟くと、そいつは抵抗出来ない静香を軽々と肩に担いだ。
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