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我に返ると、周囲は鬱蒼たる森であった。枝葉の隙間を突いて、冷たく澄んだ夜の空から月光が射し込み、白い雪を銀に輝かせている。
(どこ?)
どうやってここまで来たのか、まるで記憶がない。鳥の顔を持つ妖怪に囚われたまでは覚えているが、そこからが全く分からないのだ。
「寒い…」
足許を見れば、雪は足首の上まで積もっている。だが、
(どうやってーー)
足跡が、無い。雪の上には自分の足跡どころか、自分をここまで連れてきたのであろう「あの者」の痕跡すら見つけられない。まるでここまで宙を舞い、ストンとここに落とされたかのようだ。
「!」
声も出ない驚き。
痕跡を求めて周囲を見渡し、その首が正面に向き直ったその刹那、そこに黒々と聳える門が出現していた。まるで最初からそこに存在していた、とでもいうように。
マヨイガーー
その四文字が静香の脳裡を占めた。
「マヨイガのような隠れ里は、呼ぶ相手を選ぶ」
佐渡の講義での言葉を思い出す。自分は呼ばれたのだろうか、何故ーー。
「来い」
突如頭の中に響く、何者かの声。
(行かなければ)
それに応じるが如く、そう思う心が、突然芽生えた。まるで自分の中に、その声に惹かれるもうひとつの心が生まれたような感覚。
それは見る間に大きくなり、ついに凍りつかせていた最初の一歩を踏み出させた。軋んだ音を立てて、門が開いていく。それをくぐり、中に入る。庭には冬だというのに赤や白の花が咲き乱れ、鶏がその間を元気に往き来している。畜舎には牛馬が何頭も繋がれているが、人の気配はない。
ーーお伽噺だと思っていた。
いかに在村が憧れようが、咲が信じようが、所詮は過去と雪に埋もれてしまった、古い土地の伝承に過ぎない。そう思っていた。ーーだが、静香はこの門の先に現れた屋敷の中にどんな光景が広がっているのかを知っていた。
ーー終に玄関より上がりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀あまた取出したり。奥の坐敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たりーー
遠野物語が語る、美しく、そして少し恐ろしくもある幾つもの物語達の中に紛れ込んでしまった、小さな言い伝えの中の、更に小さな一節。
沸騰する湯が立ち上げる水蒸気が鉄瓶の蓋を踊らせる、ちん、ちん、という音が、確かに聞こえる。
その音に導かれ、静香は、そして静香の中に芽生えた意識は、共に屋敷に足を踏み入れた。
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