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彼女と過ごすうちに、言葉や感情が僕の中に降りつもり、層となっていった。僕も彼女ほどではないけれど、前よりは上手に言葉を使いこなせるようになった。
彼女と過ごす毎日は穏やかで、それでいて新鮮な驚きや発見に満ちていた。
僕は特に、黄昏時に丘の上へ出掛けていって、彼女の隣に座りながら夕日を眺めるのが好きだった。毎日表情を変える夕焼けももちろん綺麗だったけれど、茜色に照らされる彼女の横顔は、それよりもっと荘厳な雰囲気を纏っていて美しかった。じっと空を見つめる彼女の姿に僕は何度も見とれた。これが憧れというものだろうか、とどこか切ない気持ちが胸の内にあふれた。
ある日、丘を降りているとき、彼女の指が僕の手に絡んできた。その仕草は優しげで、思慮深く、自然体だった。彼女の手をそうっと握り返すと、僕の手に備わった触覚センサーが、彼女の掌の感触を伝えてくる。
僕が握るべきなのは武器ではなかった。彼女の手をこそ握るべきだったのだと、その瞬間に理解した。僕は温かい気持ちに満たされた。
しあわせ、とはきっと、たくさんの色をした温かい気持ちすべてを包括した概念なのかもしれない。
僕は充足した日々を送っていたし、彼女も毎日ほほえんでいたのに、こういった日常は永くは続かないんじゃないか、という漠然とした疑念が生まれたのはいつからだっただろう。
違和感があっても最初は気づかないふりをしていた。たまたま調子が悪いのだ、と無理やり自分を納得させていた。でも、いつしかそれが無視できないほど顕著になっていった。
彼女が壊れる予兆が、だ。
彼女は長い時間黙りこんで遠くを見つめる時間が増えた。会話の文脈が支離滅裂になり、彼女自身も困った顔をする頻度が増した。手足の連携が上手く取れず、物を落としたり転倒したりする回数が増えていった。
でもきっと、大丈夫。だって昨日もその前も致命的なことは起こらなかったんだから、明日もその先もこの日常は続くはず。そう思いこんだ。思いこもうとした。
僕は愚かにも本質から目を逸らし続けたのだ。別れは突然やって来た。
その日、僕が鶏の鳴き声で目覚めると、リビングの椅子に彼女が座って俯いていた。
「おはよう……?」
ただならぬ雰囲気を感じつつも僕は朝の挨拶を投げかける。相手は答えなかった。さらにそちらへ歩み寄って、気がついた。
彼女――ヒトの心をエミュレートした完全自律型汎用アンドロイド――は、椅子に座った姿勢のまま、全ての機能を停止させていた。
僕は呆然とした。ぴくりとも動かない彼女を前に、馬鹿みたいに立ち尽くした。
彼女がいつも身につけていたワンピースは机の上にきちんと畳んで置いてあって、服の下に隠れていたアンドロイドの無機質な素体表面があらわになっていた。僕は、昨夜寝る前に彼女と交わした最後の会話を思い出した。
「私のすべての機能が完全に停止したら、このワンピースを君にあげるね」
突然切り出された話に僕は仰天する。
「え……どうしていきなり、そんなに悲しいことを言うの?」
「近いうちに必ず来ることだから。私たちはやっぱり、人間ほどは長く活動できないみたい。純正の部品がなければ余計ね。頑張って自己修復を重ねてきたけれど、それももう限界みたいなの」
彼女は悲しみを強いて抑えるように、淡々と話している風に僕には見えた。その姿は思い返すとどこか痛々しいものだった。
僕は混乱しすぎて、何を言えばいいか分からなくなってしまう。
「でも、でも……でもそのワンピース、お気に入りなんでしょう? 貰えないよ」
「そう、とってもお気に入り。お気に入りだからこそ、君に貰ってほしいの。丘に座っているときとか、よく見ていたでしょう?」
彼女が微笑して僕の顔を覗きこむ。
顔が熱くなった。そうだ、僕は彼女の綺麗なワンピース姿に憧れた。それが似合う彼女に憧れたのだ。その気持ちを悟られていたなんて。頬から火が出そうなほどの気恥ずかしさを覚えた。
僕は自分の擦り切れた服の裾を掴む。
「でも、僕は……僕には、似合わないよ。着る資格がない。兵器だから」
「そんなことない。君はもう兵器じゃないし、とっても可愛いんだから」
ふわり、とたおやかな腕が背中に回ってきて、抱き締められる。
「君はきっと、これからどんどん可愛くなっていくよ。本当は君が成長していく様子を見守っていたかったけれど、その願いはどうやら叶わないみたい。でも、なにかを楽しみにしながら眠るのだって悪くない、そう私は思ってる」
僕らは長らくそうしていた。あれは彼女の遺言だったのかもしれない。
活動を停止する前に彼女がワンピースを脱いだのは、きっと僕の心情を慮ってのことだろう。昨夜の言葉があっても、彼女のワンピースを脱がすなんて自分にはできなかったと思うから。
彼女は僕のもとから旅立っていってしまった。僕は声をあげてわんわん泣いた。記憶にある限り、初めて流した涙だった。
これが僕と彼女が出会い、そして別れた顛末だ。
別れたというのは正確じゃないかな。彼女の存在は僕の中に、ずっと生き続けている。
彼女から貰ったワンピースには未だに袖を通せていない。今の自分にはまだ、あの可愛いワンピースは似合わないと思うから。
彼女と過ごしていたあいだに深層心理で望んでいたような、可愛らしい女の子に僕がなれるかはまだ自信がない。でも、僕の中には素晴らしいお手本がいるのだからきっと大丈夫だと思う。僕も彼女に倣って、自分を私と言ってみようか。でもそんな清楚な感じの言い方は、僕らしくない気もする。
僕と彼女は、この荒廃した大地で確かに生きていた。
このどうしようもない世界で、彼女と生体兵器の僕が心を通わすひとときが確かにあったんだ。
僕はこのログを、彼女に教わった言葉と感情表現を用いて記してきた。あなたの心の中にも、彼女という存在が降りつもり、息づいていてくれたらとても嬉しい。
それが今の僕の、たったひとつの願いだ。
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