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南に有る街にしてはなかなかないのだがその時はふわりと雪が降っていた。
「私の方から聞くのはどうかと思うけれど結婚をなんてのは有り?」
僕が三年付き合った彼女から言われた言葉。確かにこんなことを言われても仕方がない時期ではあるだろう。彼女だってもう三十歳という節目を超えてしまっているのだから。
「うん。そうだね。考えてはいるよ」
その時はどっちつかずな返答しかできなかった。思えば彼女と付き合ったのも、彼女からの告白にオッケーしたわけで僕からアプローチしたわけじゃない。
かと言えど彼女のことがキライなわけではない。ただ彼女は世界で二番目に好きな子と言うことだった。
僕の返答に彼女は半分喜びながらも、心の深いところでは僕が口どもったことを理解しているのだろう。その日はもう結婚の話題なんてしなくなった。
いつものようにデートから分かれてさみし気しかない自分の部屋に戻ると、この部屋で一番長い時間を過ごしている椅子に座る。
簡素なつくりの椅子で特段座り心地の言い訳ではないが、僕は眠るときを含めてもかなりの時間をこのイーゼルの前の椅子に座っている。
「彼氏が画家なんて格好良いって言われちゃった」
彼女の昔の言葉が浮かんだ。まだ付き合い始めの頃の話になる。画家として食べられるとは言っても僕は決してお金持ちではない。普通の会社員と比べたら同じくらいか、ちょっと少ない方だろう。それでも成功しているといえる。
元々広告デザインの仕事を一緒にした事から彼女との物語が始まった。彼女も芸術には興味が有って、それは売れてない僕の名前も仕事をする前から知っていたくらいだ。そんな人に憧れられて告白を受けるのには時間は必要なかった。
「貴方の絵が好きです。でも、貴方の事がもっと好きになりました」
ロマンチックとも言える言葉だった。僕の絵を認めてくれた事もそしてこんな僕の事を「好き」と言う彼女には惚れてしまったところもある。
更には今に至っては僕のサポートにもなるからと彼女はそれまでの会社を辞めてしまって、美術商を始めた。もちろん僕の絵だけではなくて他の広い美術品を扱っていて、売り上げは良くて僕より稼いでいる。そして、僕の収入も彼女の腕前があるからと言えるところもある。
こんなに感謝をしてもし尽せない様な人なのに、僕にとっては一番になれない。ひどい奴だと自分でも思う。多分彼女にとっては僕は一番だろうに。
僕が一番に思っているのは彼女ではなくて、高校時代に一緒の美術部だった人だ。その人はとてもカラフルな絵を描く人だった。
「こんな色、俺は使ったことがないな」
どちらかと言うとその頃の僕の絵はモノクロなものが多くて、色彩に関してはその人に勝てる気がしなかった。
部で一番の才能の持ち主の絵を見たときにポツリとつぶやいただけの事だった。しかし、あの人はそれを聞き逃してなく、ツカツカと近づくと僕のことをにらむ様に見ていたが次の言葉は印象と違っていた。
「教えてあげようか?」
その人は僕の事を敵視することもなく仲間みたいに接してくれて、友達として仲良くなるのはすぐだった。
その次の段階。恋人になれなかったのは僕に責任がある。僕は絵が好きでしょうがなかったのに才能がなくて、それまで小さな賞だって取った事がなかった。それに対してその人はちょいちょい賞を取っていたので、釣り合わないと思っていた。
「君は面白い絵を描くんだね」
あの人からの言葉だ。賞を取ったこともない人間が受賞歴のある人間から言われているのだから、普通なら嫌味に聞こえるかもしれない。それなのに僕はその時嬉しかった。これまで賞などで認められたことがないのに、あの人は自分にはない才能だと言う。それはあの人には認められているという言事なのだろう。
高校の美術部だからと言え誰もが画家になれるはずもない。有名な学校だったので単なる趣味の人は居なかったが、それでもデザインのための勉強にしている人だっている。そして画家なんて高根の花と理解しているような僕だっていた。
でも、認めてくれたあの時から僕は真剣に画家を目指すようになった気がする。それまでは好きで進んでいた道だったんだけど、苦手は部分も克服するためにがむしゃらになったことも有った。
そのおかげか彼女が僕の絵にカラフルな要素を含めてくれたのが原因かはわからないが、僕はそれからちょっとずつ賞もとれるようになっていた。気が付けば彼女と競うくらいの実力になってさえいた。
「いつか、あの人に追いつけたらその時は」
そんな言葉を自分だけの合言葉にして随分とキャンバスに向かっていた記憶がある。
事が違ったのは国立美大の合格発表だった。当然狭き門扉は僕とそしてその人には開かなかった。まあ、それは仕方がないとして、僕は私学に進んだのだが、その人は金銭的な理由から進学を諦めてしまった。
「絵の道を進んでいたらまた会うことになるだろうから、さよならは要らないよ」
卒業の時のあの人からの言葉だった。寂しく思っていた僕はどれだけこの言葉に背中を押されたのだろう。ただあの人との繋がりを保つことに必死になるしかない。
美術を学んでもっと僕が絵を上手くなって、彼女に追いつけたならまだチャンスは有ると思っていた。それが間違い。
僕はどうにか才能をちょっとだけ開花させられて画家というのを職業にすることが出来た。未だに広告デザインの仕事も多いがそれでも画家と言えるレベルになっている。やっと夢の世界であの人との再会だと思った。
「彼女なら筆を折ったよ」
同じ高校の美術部の知人から知らされたのは衝撃の言葉だった。
あんなに才能が有った人なのに勿体ない。それにあの人の話していた事と違う。しかし、美術の勉強はそう簡単なものではなかった。金銭的余裕がなければ続ける事なんて非常に困難で僕は自分が恵まれていたことを思い知った。あの時の言葉は僕を進ませるための優しい嘘だったのかもしれない。
僕とその人をつないでいた絵という一本の糸が途切れてしまったら、もう繋がりなんて無かった。高校も美術部が有名なところで県外から集まっていた人間も多いので、その人がどこに居るのかもわからなくなってしまった。
「会えるうちに想いだけでも伝えていれば」「連絡先くらい聞いておけば」「もっと話をしていれば」
僕の中には後悔の念が重く広がって、それと一緒にその人への想いが更に強くなる日々だけが続いていた。
暫くの期間は恋人を作る事からも遠ざかっていた。しかし、それは絵の方へと情熱を向けることが出来た。ただ自分の好きな絵に逃げていただけなのかもしれない。あの人に教わった色を使って世界を色とりどりに閉じ込めていた。
そんな日々が今の僕を形成しているのかもしれない。本当にあの人には教えられてばかりだ。
数年が過ぎてあの人の事を忘れられないながらも恋人と呼べる人がちらほらと出来たりもして、段々と自分の絵の値段も上がり始めたころだった。
「お前の知り合いのあの子が結婚したんだってよ」
美術部とは関係のない高校の頃の友人が、その同級生と結婚した嫁さんが僕の好きなあの人と親友でその事実を聞いたらしい。
「そうなんだ。それは良かったな」
本当に一度は祝福したい気も有った。その時にはもう今の彼女と出会っていたから。でも、その言葉を吐いた途端に忘れていた想いが恐ろしいくらいに積みあがっていた事に気が付いた。
あの人の結婚なんてことを祝えるはずもない。そんなものは幻想にしか過ぎなかった。いつまでも消えない儚い想いは年を追うごとに痛くなる様になっていた。
辿り着いた真実から暫くは良い絵が描けなかった。ただあの人を真似るような事しかできなくて、払拭しようと思ったらそれは絵と呼べるものではなかった。僕の絵にはあの人の存在が確かに有ったと言う事になる。
ただあの人を思い続けてしまう様な毎日だった。日々、たぶんこれまでだってあの人の事を忘れたことなんてないって事を再確認していた。誰と付き合ったところであの人には敵わないのが心のどこかで分かっていた。
「ごめん、別れよう」
それを確信したときに僕は彼女へと決別の言葉を言っていた。あの人にこんな重たい想いを抱いているのに、敵わない彼女のことを真摯に愛せないと思う部分があったから申し訳なかった。確かに彼女の事も一番ではないとせよ好きなのは確か。けれど、やはり敵わないと思い知っていたから。
「私は貴方の事が好きだよ。きらいじゃなければこれまで通りで良いよ」
どこまでも優しい言葉に包まれて、僕はその時泣いてしまった。まるで子供の様に無様で格好悪いだろうが、彼女はそんな僕の事をちゃんと受け止めて認めてくれていた。
あの頃から彼女の事を真っすぐに愛そうと思った。あの人の事は忘れられないけれど、それは僕だけの勝手な想いだから通じないのかもしれないのだから。もしチャンスがあって告白できたとしても綺麗に断られていたのかもしれない。そうなると彼女はとても素敵な人だ。
彼女はこんなどうしようもない僕の事を愛してくれていて、別れを告げたときにだって怒ることもなく優しさで返してくれた。僕が愛するべき人は彼女なのだと言い聞かせることにしていた。
「お前も昔の恋を忘れたんだな」
ある時に久々に高校の時の友人と話す機会があった。奴はあの人の事を僕がどれだけ好きだったのかを知っている。だから彼女が居る僕をおちょくる様に過去の好きな人として、あの人の事を語っていた。
けれど、僕はまだあの人の事を忘れきれないでいた。彼女の事を愛そうと思ったときからは季節がガラッと変わっていたのに、まだあの人の事を忘れられない。それどころか段々とあの人の事がまだ好きになっている気がした。
「忘れられては、ないんだよ」
呟くように返した言葉に友人は言葉を詰まらせていた。当然だろう笑い話をしたかっただろうにおかしな雰囲気にしてしまった。
「でも、あの子は結婚してるんだろ? そうなるとお前の思いは」
難しそうな声をして友人が話していたが、僕はどうしようもなくなったのでそれで話をはぐらせていた。
奴の言いたいことくらいはわかっている。僕の想いは許されないものだ。あの人はもう誰かの妻なのだから僕がもし想いを告げたところで、それはあの人に浮気の選択をさせる事になる。申し訳ない。それはとても思っている。
けれど、許されないことだと思ってはいても、それでも良いと言えてしまうほどに僕はあの人の事を好きでしかなかった。もしあの人が辛い思いをしないのなら僕のほうはそんな細かいことを気にしない。ただあの人に好きと言える関係になりたかった。
「友達がさ、離婚したんだって。子供も居るのにどうするんだろうね」
単なる日常の彼女との会話だった。それは僕も数度会ったことのある彼女の友人の離婚を知らせるだけの事。なので、僕は簡単ながらも会話のための相槌を打って、その日はそれほど気にもしなかった。
ぽとりと落とされた光は消えることもなく灯り続けていた。彼女の友人はそれなりに仲良し夫婦の印象があって別れるなんて思えなかった。しかし、結論は離婚となった。人生なんてわからないものだ。そうなるとあの人だってわからない。そんな思いが僕の中を渦巻く。
結婚を知ってから彼女の動向なんて知れる事もなかった。もしかしたら悲しい離婚をしているのかもしれない。願ってはダメな事だと理解しながらも、僕はその事をわずかな希望にすらしてしまった。あの人が今はもう独身に戻っているならこんなにうれしい事はない。その相手に僕が選ばれるかどうかなんてわからないけれど、願わずにはいられない。
僕だったらあの人の事を一生愛し続け、離婚になんてならないようにするだけの自信はあった。これだけ好きな人をもう一度失う事なんて考えられない。またもう一度会えたなら、あの人と一緒に居られるならどんな困難だって怖くない。
けれど、もちろんこんなのは僕の勝手な思い込みでしかない。あの人の事は一度たりとも僕の横にいた存在ではないのだから失ってさえないのだろう。二度なんて思っているのは僕だけだろう。
あの人はとても素敵なんだから悲しい人生を歩んでいるはずもない。僕よりもっと充実して幸せな道を歩いているだろう。それはわかっているのが悲しくもあった。
「結婚の事、ちゃんと考えているから」
昨日、彼女から言わせてしまった言葉を忘れないうちに僕からもちゃんと再確認させていた。
「そう期待はしてないよ」
軽く彼女はあしらう様に返答していたが、その時に喜んでいるのなんて真顔を保っていることを見ただけで分かってしまう。もう僕たちはそんななんでも知っている存在になっているのだろう。本当に僕の片思いとは決別の時なのだろう。
これだけの時間があったのだから今の僕はあの人への想いで埋もれてしまっている。呼吸もできないくらいに苦しいときだってある。そんなときに救けてくれるのは彼女の役目になっている。おんぶにだっこの僕がみすぼらしい。
この状況から遠ざかるためにはどうしたら良いのかと考えた。僕にできる事はなんて絵を描くぐらいの事だった。彼女から教えてもらった色を使って絵を描こう。あの人の笑顔を思い出して実体化させて一線を引こうと思った。
あの人の教えてくれたカラフルさと印象からの透明感を表現させるために下描きの一切ない水彩画で進める。意外なほどに絵が進んでいた。これまであの人の印象すらも題材にしたことがなかった。こんなに僕の中にあの人の欠片が詰まっているのかを思い知らされる。
段々と進んで、色は鮮やかさを更に強く、けれど暗い印象にはならないで、白いばかりの雰囲気さえも残していた。一応人物画ではあるが、それはあの人に似ているというわけでもない。あくまで僕の中の恋心の人物を表しているだけだから。
恐らくあの人を知っている人に見せてもそれを気付かせる事はないだろう。僕にしかわからない題材になった。そしてこれまでで一番良くできたような気がしていた。
この絵を一番に見せるのは当然彼女だった。これまでも完成したらすぐに彼女に見せている。それまでは楽しみに待っている彼女だが、一番に見ることは譲ったことはない。
彼女を呼んで新しい僕の決別の自信作を彼女に見せた。
「これはあの人なんだよね」
絵を見た瞬間の彼女の言葉だった。
もちろん堂々とあの人の事を彼女には伝えていない。昔好きだった人だとかそんな程度でしかないし、とは言えあの人の写真も見たことがある。それでも彼女は僕のあの人への想いを知っているような気がしていた。
絵とは違う人なのに彼女はすぐに僕があの人の事を題材にしたのを見極めてしまった。そんな事までもわかってしまう関係に僕と彼女はなっているのだろう。
けれど、彼女は怒ることはなかった。確かめただけで絵を見つめるとうんうんと頷いている。僕の想いを全部知って理解しているようにしか思えなかった。
「こんな絵は見たくないんじゃないか?」
僕のほうからはそんな言葉しかなくなっていた。
「私はこの絵がとても素敵だと思ったから」
振り返った彼女が笑顔で答えていた。あの人にも負けないくらいの笑顔。今愛せている人が喜んでいる。それは確かにわかっていた。
「ごめんなさい」
僕からはもうあやまるくらいの事しかできない。けれど、この時にはもう彼女のことをこれから真剣に愛そうと思っていた。
あの人への想いはたぶんこれからも消えることはないだろう。もしかしたらまだ増える事は有るのかもしれない。けれど、これまでに集まったその欠片に埋もれる事なく、これからは僕の地盤として前に進もうと思う。これだけの想いなのだからそれはとても強い地面となるのだろう。
もしこれから僕の人生が終わるまでの間にあの人と関わることができたのなら、その時はやはり想いを告げたくなってしまうだろう。でも、その時にきっと隣にいてくれる彼女のことは忘れない。一度彼女のことを見詰めそこでもう一試案するしかない。人生はどうなるかわからない。未来を考えても前には進めないんだ。
今は彼女を幸せにすることが僕にはできるのだろう。だったらせめて有るかわからないその時までは一生懸命に彼女を幸せにすることに悩もう。
申し訳なさそうな顔をしているだろう僕のことを、彼女は振り返ってみる。そこには嫉妬や怒りなんてものは見ては取れない。どてもできた人なんだと改めて思う。僕には勿体ないくらいの人だ。
「構わない」
全て解っているみたいにそう呟いてた。
おわり
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