とある団塊世代の四国遍路日記 第一回区切り打ち       写真;佐喜浜から室戸岬方面を望む

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第九日目 宍喰(民宿ぬしま)~尾崎(民宿徳増) 平成19年11月15日(木)晴れ 28km(41,000歩)      今日は昨日より距離は短く28kmであり、「民宿ぬしま」の出発はAM7:50にした。ただ、今日も暑くなる様で、尾崎の民宿を予約する時に忠告された「東洋大師より先、10kmの間には水(自動販売機)が無い」と言う言葉が頭にこびりついている。民宿より宍喰漁港に沿って坂を登り国道55号線に出てから振り返れば、宍喰大橋の向こうに朝日に照らされた宍喰の町並みが、快晴の空の下で美しく眺められた。間も無く水床トンネルの長い通路があり、高校生が自転車でここを通り抜けて来る。自分はこのトンネルを向こうに抜けると、そこに高知県の標識を見つけ、ここより『土佐:修行の道場』の始まりとなる。 甲浦の大きな漁港が現れ、海をまたぐ橋では朝日に輝く海面がまぶしくきらめいていた。こんな漁港を過ぎ、甲浦トンネルを抜けると東洋町の明るい海岸が開け、サーファーを対象としているのであろうか、いくつかの民宿が立ち並んでいた。これらを横目に見ながらコインショップで、缶コーヒーを飲み煙草を吸っていると、夏の様な日差しの中で何か異次元の場所へ迷い込んだ様な感覚を覚えている。それは穏やかな景色に見とれた長旅での放心なのか、発心の道場を越えた安堵感なのか、それとも修行の道場へ踏み込んだ高揚感なのか。人気の全く見えない景色を、茫洋と眺めていた。  それも束の間のことで、歩き出して相間トンネルを抜けると『東洋大師』となり、涸れ谷に水を湧かせたと言う弘法大師の言い伝えが残っている。そして、ここから先には自販機が無く水の補充が出来ない。だが、その前に食料も無く、この辺りの国道には何も見当たらないが、たまたま野根大橋の手前で饅頭屋を見つけた。甘い物は苦手であるが食い物が無い事情もあり、8個入りの野根饅頭を購入した。野根大橋の袂でこの饅頭を食べると、大変美味しいもので、この後の室戸岬や高知の土産でもこれを購入している。ここの自動販売機でペットボトルを買い込み長い海岸線を歩くが、まさに長い海岸線である。今まで一日に30kmも歩くと景色の変化もかなりあったが、この先数10kmは何の変化も無い景色ばかりである。ただ海岸には波の寄せ引きによりゴロゴロと石のこすれ合う音が響き、これが延々と続いている。土佐修行の道場であり、今でこそ国道があるが、この海岸を歩いた昔の遍路達は困窮を極めた道である。弘法大師と共に歩く『同行二人』と言う言葉は、菅笠や金剛杖に書かれているが、まさにこの辺りの遍路道でこそ相応しい。これが、四国で感じた『第五番目の心』である。  それにしても、この暑さは何なのか。これが夏場なら耐えられるものでは無いと考えながら、わずかな木陰を探し30分毎に休憩を取っている。小さな饅頭8個では到底空腹には耐えられないと思っていたが、その矢先に佐喜浜の手前となる岬でラーメン屋を見つけた。ここぞとばかり飛び込んで食べながら、地元の過疎に悩む話を、店主と寺の住職の会話の中に聞き入っていた。このラーメン屋を出ると、またまた埼玉のIさんに遭遇し、まことに奇縁と言おうかよく会う人である。ここより佐喜浜に入ると黒装束の遍路に会い、歳は自分と同じ団塊世代の人で愛媛県から来て旅慣れた様子であった。娘の話や孫の話等、自分にも合い通じる話をしながら佐喜浜の防波堤道路を歩き、今宵の宿である「民宿徳増」の前で別れた。この人も野宿であり、今日は室戸近くまで行くと言い、この時刻よりすると大変だと思いながらも、歩き慣れた姿に安心もして見送っていた。はるかかなたの海に突き出す様に室戸岬が見えるが、それにしても遠い先であり海に同化する様にかすんでいる。「民宿徳増」到着PM3:40、この民宿は新築の様であり、綺麗な部屋には畳の香りが香ばしかった。泊り客は、横浜の63歳の人と他に夫婦連れの2人であり、この横浜の人とはよく話が合った。退職後に遍路旅をしており、区切り打ちの2回目で23番札所の薬王寺より歩き出したと言う。長い会社生活の話から始まり、定年後はタテ社会よりヨコ社会に変化するという話等は、まったく同感であり意を強くした。また、ここの女将さんは、京都に4年程住んだことがあると言い、久しぶりに京都の話も出来て懐かしく思えた。明日の室戸に備えて、今日もよく寝られそうであるが、波の音が恐ろしいほど近くに聞こえている。     【雑感】  人は四国遍路に様々な思いを持って、この地に足を踏み入れるものであるが、この思いを遂げる旅には修行と言う言葉が相応しい。そして、この四国遍路には、常に弘法大師の加護のもとに歩くと言う『同行二人』の旅になり、苦しい時にも決して見捨てずに守って下さると言う大師の言葉を信じて共に歩くことになる。歩き遍路は夫婦を別として、ほとんどが一人で来ており、旅の途中で知り合った人と歩く時があっても、基本的には一人である。それは、弘法大師と常に寄り添って歩く『同行二人』と言うことに他ならず、大師の修行の心である『無財七施』に心掛け、札所を廻りながら自分を見つめ直すことが、遍路の目途につながるのであろう。
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