とある団塊世代の四国遍路日記 第一回区切り打ち       写真;佐喜浜から室戸岬方面を望む

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第十日目 尾崎(民宿徳増)~第二十五番津照寺:室戸市(BH富士) 平成19年11月16日(金)曇り 22km(35,000歩)    今日は曇りがちであるが、時折日が射込む一日である。「民宿徳増」をAM7:15に出発し、快調な足取りで歩き始めている。民宿前より見えていた夫婦岩が大きく迫り、奇岩と言おうか巨大な岩が岬の先端にあり、海の中に並んだ先頭から4つ目の岩とその手前の岩との間にしめ縄が張られていた。この岬を廻ると、はるかかなたに室戸岬と思しき半島の先端がかすんで見え、あそこまで歩くのかと思うと気が遠くなる。海はあくまで雄雄しく、猛々しい波は海岸の石を転がしゴロゴロ、ゴロゴロと地響きの様な音を立てている。白波は石の中に消え入ると、再び紺碧の海より湧き上がって来る。まさに『土佐には白波がよく似合う』と、思わざるを得ない。  果てしなく長い海岸線の国道を、一つ、一つ岬を廻り込むと、やがて巨大な青年大師像が見えて来る様になる。ここは、この先の『御蔵洞』において青年期の弘法大師がきびしい修行に耐え、『求聞持法』を成得したことを後世に残すために建立された高さ21mの大師像とその裏にある黄金の涅槃像であった。ここから100m程進むと断崖の下に二つの洞があり、左の洞が『御蔵洞』である。一礼をして中に入ると外よりの光がわずかに届く最奥部に、愛染明王を祀った祭壇が設けられていた。この洞内より外を見ると大海原を望むことが出来、大師の修行中に明星が口の中に飛び込んで来たと言う逸話も理解出来る光景である。その修行の時期となる平安時代初期に、ここはどのような風景であったのか。現代にはアスファルトで舗装された国道が設けられているが、当時は断崖の下を這うようしてここへ至ったと思わざるを得ない。そこまでして成さざるを得なかった『求聞持法』の修行とは、恐らく現代人の想像を超える鍛錬であったに違いない。薄闇の洞内で灯明を灯し、そんな崇高な有様を思い浮かべ、手を合しながらぽつねんと考えていた。  洞を出ると車が走る現世であり、国道を避けて奇岩が居並ぶ室戸岬の荒磯遊歩道に入る。その先端にある「灌頂ガ浜」でしばしの休憩を取り、穏やかな気候の下で雄大な太平洋を眺めていると時間が経つのも忘れる程である。  国道に戻ると、その正面に建つのが『中岡慎太郎』の像であった。言わずと知れた土佐陸援隊の隊長であり、海援隊の隊長であった坂本龍馬と共に幕末の動乱を鎮めるため薩長連合を画策し、その大業半ばにして京都三条大橋の袂にある「近江屋」で刺客に斃れた英傑である。この像は桂浜の坂本龍馬像と向き合っており、幕末の動乱期に彼らの様な人物がこの土佐より輩出されたのは、この雄大な海を眺めていると納得出来る様な気がする。『中岡慎太郎』の像に巡り合えた安堵感もあり、この横にある喫茶店でケーキセットを食べ寛いでいるが、この後にはきびしい登りが待ち受けている。  国道を後戻りし、『第二十四番最御崎寺』への登り口に向かう。ここをしばらく登ると石仏が並ぶ『観音窟』があり、ここから高度差150mを一気に登ることになる。登りの途中で小休止を繰り返し、振り向くと大海原が見渡せ、これに元気をもらいながら登り切ると最御崎寺の山門前に出る。落ち着いた境内には由緒のある本堂が建ち、足摺岬の金剛福寺と同様に『補陀落渡海』を送り出した寺でもある。そして、ここでも入れ違いに埼玉のIさんに会っている。室戸岬灯台は少し下った所にあり、明治32年4月1日に完成し、その後室戸台風や戦災にも会い、昭和21年の南海地震によるレンズの破損で修理し、160万カンデラの光は49kmのかなたにまで届いている。ここで家族や、Kさんに室戸到着を電話で知らせ、そして眼下を見下ろすと足がすくむ様な室戸スカイラインを下ることになる。室戸漁港から『第二十六番金剛頂寺』がある行当岬から続く尾根筋まで、土佐湾の東の入り口となる雄大な景色に見蕩れている。道路脇が断崖の様に思える道路を恐る恐る下り切ると、ほっとして海岸線にあった食堂福洋丸でソバを食べている。ここの主人によると一昨年の台風では、この前の防波堤を波が乗り越え、大きな石も運んで来たと言う。近所の釣具店では、この波と石で店が壊れ命からがら逃げ回った様である。日本海と違い太平洋の波はすさまじい威力がある様で、昨夜の民宿でもその一端を垣間見た様である。  広大な室戸漁港の横を延々と歩き、室戸市の市街地に入ると間も無く『第二十五番津照寺』の山門があり、石段を登りつめたところに本堂があった。漁師町の寺でもあり、大漁と海での安全を祈願して空海が開創したと伝わっている。慶長七年には、難破しかかった藩主山内一豊公の船を救ったと言う話も残り、今も海難よけの守り神として厚い信仰を集めている。そして、ここの町屋の中に「BH富士」があった。「BH富士」到着PM4:00、入り口が狭い割には奥行きがあり、部屋数も多くあったが泊まりは自分一人であった。ここでも広い風呂場を独占している。夜には雨の音がして四国に来て初めての雨になったが、気持の好い疲れでぐっすりと寝入っていた。 【雑感】  四国八十八カ所の札所を廻るには様々な道がある。国道や主要地方道、県道などの車道や、農道や林道、山道の様な人だけが通る道もある。車道では車の多少はあっても、常に危険が伴っており、トンネルでは排気ガスに苦しめられる。人だけが通る道では、まさかこんな人家の裏庭と思う様なところや、田んぼのあぜ道など、まさに長い歴史の中で変貌を遂げてきた道と考えられる。ただ、昔の遍路道が残っているのはやはり山道であり、いわゆる『遍路ころがし』と言われる様なところでは、昔の道そのものである。この様に様々なバリエーションに富んだ道を歩けることは、一つの楽しみであり、その景色と共に旅を楽しくさせる道の姿でもある。
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