とある団塊世代の四国遍路日記 第一回区切り打ち       写真;佐喜浜から室戸岬方面を望む

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第十二日目 安田(民宿きんしょう)~第二十七番神峯寺~夜須(民宿住吉荘) 平成19年11月18日(日)晴れ 33km(49,000歩) 昨日の夕焼けの素晴らしさもあり、今日の夜明け前の空には北斗七星や星々が輝くまさに快晴の空である。そして、この数日の行程は、今日の『第二十七番神峯寺』のために調整してきたと言える。『真っ縦』と言われるこの寺への道は、海抜430mに至る急峻を海岸よりほぼ直線的に登る事にあり、古文書にも「幽径九折にして、くろき髪も黄にならぬ」と記されており、修行の道場である土佐の中でも難所中の難所とされて来た。この事より民宿に荷物を預けて、この山を登る様に行程を進めて来た。荷物は早朝よりまとめており、朝食後には食堂横の入り口近くに置きAM6:30に出発した。さすがに荷物の無い状態では身も軽く、頭陀袋に入れたペットボトルの重さのみであり、快調すぎる程の速さで歩いている。ただ、これも中腹より車道を離れ遍路道に入る頃より急にきつくなり、これで荷物があれば阿波の遍路ころがしの二の舞になるところであった。やはり、民宿に荷物を預けたのは正解であり、先人の遍路記録より得た知識は、ここでも生かされた事になる。AM7:40神峯寺到着、さすがに隅々まで手入れが行き届いた清閑な境内であり、本堂への石段の脇にある『神峯の水』はまろやかな旨味があった。そして、石段を登り本堂に着くと、昨日、奈半利で別れた老人団体が既に読経を始めていた。当然、歩きであり奈半利より安田までの距離を考えると、AM5:00には出発していなければならない。恐るべき老人団体である。自分らの一般遍路の礼拝は簡潔であり、この老人団体の横で先に終わり、大師堂の礼拝に進む事になるが、早朝の山にはまだ寒さが残っていた。この寺を出ると、間も無く4回目の通し打ちとなる人とも会う事になり、この人の荷物の重量と二十三士温泉からの距離を考えると驚くばかりである。  急坂を登れば打戻りはその逆になり、やはり足にこたえるものであり、この救済策として民宿の女将さんの言う通り車道を下る事にした。「民宿きんしょう」に戻るとリュックサックの上に「気をつけてお出掛け下さい。」とのメッセージが付けてあり、勤めに出たのであろうか民宿の人はだれもいなかった。今日の行程は、ここより25kmあり、それではと出発する事にし、長い長い国道55号線を歩き始めた。  AM10:30道の駅大山に到着し煙草を吸いながら海を眺めていると、車遍路らしきおばさん連中が賑やかに道の駅に入って行く。どの様な思いで廻っているのか、この様なはしゃいだ姿を見ていると、単なるレジャーとしか思えない。気を取り直して、ここよりは国道を離れ防波堤道路を歩く事にし、3kmは続く長い防波堤を誰も人を見かけずに一人で歩いている。海は穏やかにうねり、優しさのある波が海岸に打ち寄せており、遍路旅の楽しさを感じる一時である。国道に戻るとまたもや車の列に悩まされるも、しばらくすると安芸の市街地に入る事になる。ここで昼食を食べようと思っていたが、行けども行けども食堂は無く、2軒あったラーメン屋も本日は休業であった。仕方無く、たまたま見つけたパン屋で2個のパンを買い街外れの公園で食べていると、あの4度目の通し打ちの人に追い着かれた。やはり、この人の足はすごいものと改めて感心している。安芸市は阪神タイガースのキャンプ地であり、ここの山の手にある市営球場が練習場になっており、この登り口まで行くと食堂があると聞き、確かに数軒の食堂がある観光案内のスポットであった。見知らぬ土地の旅とはこの様なもので、この先の安芸漁港で喫茶店に入りくつろいでいる。この当たりよりサイクリングロードが、国道に沿って15km程の距離で整備されている。この快適な道を歩かない馬鹿はいないと思い、ここに入ろうとすると、なんと神峰寺で読経をしていた老人団体が先に歩いており目を疑った。喫茶店での15分程の休憩の間にこの団体にも追い着かれ、この団体の先達に「早く行くのが、遍路の目的では無い。」と諭される始末である。そして、この団体と前後しながら長いサイクリングロードを歩いて行くと、赤野と言うところの公園で北原白秋の「雨」の句碑があった。 『雨がふります雨がふる 遊びにゆきたし傘はなし 紅緒の木履も緒が切れた  雨がふります雨がふる けんけん小雉子が今啼いた 小雉子も寒かろ寂しかろ』                大正八年刊行「とんぼの眼玉」に集録  この公園より見る琴ガ浜は素晴らしく、弧を描く様に遠くの岬まで続いており、さぞかし夏場には賑やかになるものであろうと想像している。  サイクリングロードは阿佐線の赤野駅の横を走り、芸西村に入ると琴ガ浜の海岸線に沿って歩く事になり、英子さんが一人で守っている接待所があった。この方も、遍路旅に出た時に他の土地で接待を受け、この感動が忘れられずに自分で接待所を開いたのだと言い、この付近では有名な接待所であった。ここでも、老人団体に追い着かれ、話をしばらく聞いていると、九州や中国地方の各地より集まっていると言い、今日の宿は自分より先の国民宿舎海風荘であると言う。そういう事は、今日の出発地が自分より前であり、前後で6km程の距離がある事より、今日一日で40kmは歩く事になる。やはり、この歳を考えると遍路にも重みがあると考えさせられるばかりである。そして、これを期に先へと進む事にし、ひしぶん駅当たりでは、じい様にみかんの接待を受け、先の接待所の英子さんの話も聞いた。今日の民宿である「住吉荘」はもう直ぐだと思っていたが、このじい様によるとまだ40分近くは掛かると聞き、これでは遅くなると考え、あたふたと歩き出す事になった。はるか遠くに夕日にかすむ足摺岬を見つめながら、琴ガ浜の松林の中を歩き、岬を廻り込んだところでサイクリングロードより、200m程海側に入ると「住吉荘」があった。到着PM4:30、ここで洗濯をしていると聞き慣れた声がし、やはりあの埼玉の石橋さんであり、この人とは初日以来あちこちで会い同宿も3度目となる。しかも今日は二人だけであり、食事中に色々とお互いの身の上話をする事になった。この人は、3月に妻をガンで無くし子供もいない事より、働く意味が判らなくなり経営していた工場を手放して四国に来たと言う。今まではもっと捌けた人と考えていたが、やはり民宿泊まりであるが通し打ちをやろうとする人は、何か深い意味があってここに来ていると思うばかりであり、様々な人とのふれ合いの中で考える心が四国で感じた『第六番目の心』である。そして、「住吉荘」は料理が好く、カツオのたたきはここが一番であり、昔、新入社員の頃に高知で食べたカツオを思い出させる感じであった。 【雑感】  先人達の遍路記録を読むと様々な人との出会いや、様々な場所で再会するとの記述が多く、歩く早さや距離が人によって違うのに、なぜこの様な事が起こるのかと不思議に思っていた。しかし、実際にこの地を歩いて見ると何度も再会する人に、偶然と言おうか、成り行きと言おうか、はたまた奇遇と言おうか言い知れない遭遇があった。これは、やはり四国の成せる「えにし」であり、その仕組みなのであろう。そして、その遭遇の中で人とのふれ合いが生まれ、それぞれの思いや定めを知る事で、また自分を見つめ直す事も出来る。この様な事も自分の思いを遂げる四国遍路の一つの柱になっているのであろう。
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