とある団塊世代の四国遍路日記 第一回区切り打ち       写真;佐喜浜から室戸岬方面を望む

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第十三日目 夜須(民宿住吉荘)~第二十八番大日寺~第三十番善楽寺~ 高知(BHタウン駅前) 平成19年11月19日(月)晴れ 32km(48,000歩)高知市内含む  四国に来て今日まで日々の最高気温が19~20℃でありシャツ1枚で歩いていたが、今日の最高は14℃の予報で朝方の冷え込みもあり、ポロシャツを余分に着ることにした。  AM7:00に埼玉のIさんは出発し、出掛ける前に結願を祈念しているとのエールを送り、ここで別れることになった。本日で打ち止めとなる自分は少し遅れてAM7:15に歩き出し、香南町で途切れたサイクリングロードより国道55号線に入ると、通勤の車列でごった返していた。幸い500m程で市街地に入るが、3km程進むと再び国道55号線であり、きつい向かい風の中で菅笠を押さえながら歩いている。高知黒潮ホテル前で、主要地方道22号線に入り龍馬記念館を横に見ながら進むと『第二十八番大日寺』があった。小さな山の上に建つ静かな寺であるが、門前の土産物店でおばさん達のしゃべり声がやけに騒々しく聞こえるばかりであった。  ここより住宅地の中を歩くと簡易郵便局があり、帰りの運賃も含めて現金を引き出している。郵便局はどこの土地にもあり四国を歩く時は、これを利用するのが良いとのガイドブックの記載の通りである。物部川を渡り、広い田園の中を真っ直ぐになる道を歩くと大師堂があり、更にしばらく行くとJR土讃線を横切る野田踏切になる。ここでは、長椅子がありこれに座って煙草に火を付け、顔を上げると線路の向こう側をIさんが歩いており、2週間における出会いであったが彼を見るのはこれが最後になった。自分も線路を渡り歩き出すと間も無く食堂を見つけ、昨日のことあって早速飛び込んでカレーを食べ、店の主人に頼み高知市内の地図を見ている。ここより、『第二十九番国分寺』には30分程の時間が掛かったが、この寺には室町時代の長宗我部氏や江戸時代の山内氏の庇護もあり、広い境内には多くの伽藍があった。そして、納経に時間を取られたが、自然体で待つことが出来、今回の最終となる『第三十番善楽寺』に向けて歩き出していた。  6.9kmの道程が長いか短いか、ここまでほぼ400kmを歩いて来た自分にとっては、なにか心に残る距離でもあった。国分川に沿って歩く道や山際を登る道にあった遍路小屋にも、なぜか今日で終わりと思うと懐かしさがつのるばかりである。県道384号線で高知市に入り逢坂峠が最後になる登りとなり、墓地公園の中を下って行くと善楽寺があった。先に到着していた例の老人団体と再び遭遇し、先達より今日はどこまでと声を掛けられたが「打ち止めである」と答えると、「またどこかで再会するだろう」と予言の様な言葉を残され別れている。この寺での参拝は打ち止めであり、念には念を入れて一言一言を噛み締める様に般若心経を読み上げていた。  ここから真っ直ぐ南に下るとJR土讃線の土佐一宮駅があり、次の遍路はこの駅からと思いつつ間も無く来た電車に乗り込み高知駅に降り立った。帰りの高速バスの切符を購入し、駅前の「BHタウン駅前」にチェックインすると、時間もPM5:00に迫り直ちにタクシーで高知城に向かった。この城は山内一豊公が土佐支配のために建てたもので、城内には妻である千代の像や明治に活躍した板垣退助の像があった。天守閣より見渡す高知市内は夕日に赤く染まり、一豊公がその妻の千代と眺めた光景とはどの様なものであったのかと思いを巡らしている。帰りは当然のごとく歩きであり、居酒屋を探しながら夜の市内をさまよっている。結局は高知駅近くの焼鳥屋に入り、ここまでの日々を思い出しながらビールと焼酎を飲み続けていた。 【雑感】  四国遍路のやり方には、大きくは二つの方法があり『通し打ち』と『区切り打ち』である。『通し打ち』とは、一回の遍路で八十八カ所の札所を全て廻り、『区切り打ち』とは何回かに分けて廻ることを言う。その『区切り打ち』の一つに、阿波、土佐、伊予、讃岐と国毎に廻る『一国打ち』がある。今回、自分が取ったのは土佐高知まで、一番札所~三十番札所に至る区切り打ちである。どの様なやり方であろうと、その人の思うところに従えば良いのであるが、重みとしては『区切り打ち』より『通し打ち』にあるのはいたし方が無い。 『通し打ち』となると40日~50日、『区切り打ち』ではその行き返りの日数が加算されるが、それぞれの境遇や思いの深さ、それに遍路途中における思わぬ出来事により左右されることなる。
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