とある団塊世代の四国遍路日記 第一回区切り打ち       写真;佐喜浜から室戸岬方面を望む

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プロローグ  団塊と呼ばれる世代に生まれた者として、40年間の会社生活を経て一区切りとなる日々を過ごすことになった。さあ、ここで何をしようか。誰もが悩む長い時間の始まりである。  この会社の退職前の研修で、退職後の生活を問われ苦し紛れに答えた四国遍路。それは、この当時、テレビで見ていた歩き遍路の姿に、憧れていたことであった。そこで、口に出した限りは、やはりやり尽くさなければならない使命感にも迫られ、旅に出ることにしたのである。  かと言って四国遍路とはどれ程のものなのか全く知識が無く、先ずは図書館にあった遍路旅の本を読み込むことから始めた。これも旅行ガイド的なものから、実際に歩いた人の体験記まで十数冊を読むと、相当大変な旅になることが判った。その道程には山あり谷あり国道ありの過酷な道で、なおかつ1200kmと言う距離の長さには、誰もが困難を極めるとの記述が共通していた。だが、それが結願と言う第八十八番札所大窪寺に参拝した後には、遍路道で体験した様々な出来事が蘇り、歩き通せた感謝が高揚感となって身に迫り来ると言う。それは何事にも代えがたい充実感であり、これが再び四国へと誘われることになるとも言われている。  こんな体験談に大層興味を惹かれ、益々、四国遍路に意欲が高まってきた。しかしながら落ちていた体力は如何ともしがたく、これを何とかしなければ到底長旅には耐えられない。自慢では無いが若い頃には、毎週の如く山に登り、四十歳までは現役でサッカーをやっていた。だが、その後はさっぱりとスポーツには縁が無く、仕事に追われる年月を過ごしている。そのため車社会では考えもしなかった、自宅から10kmほどの距離にある山を往復したり、隣町まで20kmほどの国道、県道を歩くなど、週に二、三度のトレーニングを二ヶ月ほど続けた。また、札所参拝に必要となる読経も、常道となる高野山HPで幾度となく聞いて練習も重ねた。更には、必須の図書とされている「四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編、解説編;へんろみち保存協力会編」も取り寄せ、日程が決まれば早めに宿の予約が必要との説明もあり、11月1日に6泊分(第二十二番平等寺まで)の予約を入れることにした。  平成19年11月7日(水)まだ明けやらぬ空の下、街灯に照らされた自宅前の道を家内に見送られて出発した。リュックサックの重さは約8kg、若い時ならさほどの重さとは思わなかったであろうが、この歳になると肩の肉に食い込む様な痛さを感じている。自宅を出ると間もなく曲がり角となるが、振り向きざまに家内へ手を振り、何か一人旅立つ心残りを思いながらもJR北陸本線の駅に向かって歩いている。行き交う車やバイクは、新聞配達のものと思え家々の戸口に止まり、駆け出していく足音のみが夜道に響き渡っていた。  30分ほどで駅に到着すると早朝の駅構内には、社用の出張者と思える人々が数人で固まりを作っている。思えば昨年までは、この人達と同様に会社生活を送り、出張の時にはここから電車に乗っていたと苦笑せざるを得ない。  電車は、一路北陸本線を大阪駅に向かって走っている。やがて近江今津を過ぎると、左手には見慣れた琵琶湖が現れ、伊吹山より遠く湖東の山々には朝日が雲間より射込んでいる。穏やかな湖面には竹生島が浮かび、近江富士と称えられる三上山が秀麗な姿を見せていた。また右手となる西方には、若き頃に縦走した比良の山々が朝日に照らされ、これからの出で立ちを祝っているかの様に思えた。  トンネルを2つ抜ければ、懐かしい京都タワーの白い姿が目に飛び込み、生まれ故郷である京都に到着した。 12月21日に生を受け、京都では毎年のこの日を『終い弘法』と呼び、東寺には賑やかな市の立つ日である。生前の祖母にはよくぞこの日に生まれたと聞かされ、また母も自分が5、6歳の頃に弘法大師が眠る高野山へお参りに出掛け、幼心ながら寂しさに母の帰宅を今か今かと市電が着くたびに外を見やっていた思い出がある。今は亡き母が旅行をしたのは、この時だけであった様で、母の思い出が残る高野山へいつかは行こうと思いつつも、今まで果たせないでいる。何か弘法大師とは因縁を感じ、四国遍路結願の暁には、きっと高野山を訪れることになる。  電車は大阪駅に到着し、通勤客でごった返す駅構内を重い35リットルのリュックサックを背負いながら歩く姿は、人から見ると異質なものに思われているのではないかと感じている。ここから四国へは、大阪駅桜橋口からJRバスで向かうことになる。バスは西に向かい明石大橋を渡って淡路島へ、この島を南端まで走って鳴門大橋を越えると、間もなく鳴門西のバス停となる。ここで降車すると、いよいよここから長い歩きが始まると、感傷に浸りながらもこの場所の写真を撮っている。そして、正午を少し過ぎた頃、『四国第一番札所霊山寺』に向けて歩き始めることになった。 【雑感】  四国には旧来、「阿波」、「土佐」、「伊予」、「讃岐」と言う四つの国があり、これを密教の悟りの境地や世界観を絵図にした胎蔵界曼荼羅になぞらえ、それぞれの国を「発心」、「修行」、「菩提」、「涅槃」の道場としている。そして四国遍路とは、弘法大師空海が若き頃に修行した足跡をたどり八十八箇所の霊場を巡拝することを言い、その最初になるのが『阿波:発心の道場』にある『第一番霊山寺』である。  ただ人は、ここへたどり着くまでに、どの様な思いや願いがあるのだろう。その昔、修行僧が行っていた悟りへの修行、近世では極楽浄土への誘いや病気平癒などの願いを込めた大師信仰による遍路、そして現代では何を思って四国の道をたどるのであろうか。今なお四国には、海に囲まれた島国であっただけに、豊かな自然や今の世に失ってしまった暖かい人間性が形として残っている。ここを歩くことによりこれらと触れ合うことが出来、また札所を巡ることにより一つ一つの煩悩が取り払われ、その結果自らの原点に回帰するのが四国遍路であると思える。その姿は、白衣に菅笠を被り、卒塔婆代わりとなる金剛杖を手にしている。それは死に装束であり、擬死再生と言われる死になぞられた旅で自らを再生することを意味している。そして、このことが何らかの悟りへと繋がるのであろう。
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