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暴力団組長の娘から銃乱射事件発生の情報を得た警察は覆面警官を大量投入し事態に備えたが,迷子の1人も出ることなく「煌めきサマーフェア」は大盛況のもとに終わった。
これだからヤクザは――警官たちが紗架を白い目で見ながら撤収していく。
「俺が警察に相談しようなんて言ったから,お嬢に嫌な思いをさせちゃって……」間部が汗塗れの坊主頭をかいた。顔面もTシャツのはりつく巨体も汗でびっしょりだ。
「何も起こらなくてよかったじゃない――ねえ」と僕に同意を求めてから,紗架は少し頰を赤くした。「来てくれてありがとう――心配してくれたんだ?」
「犠牲者が出るのを想像して放っておけなかったんだろ? 行くなって止めても,君の性格ならむしろ行くっていう確信があった」
「うん……」肩で切り揃えた髪の一筋を片耳にかける。「今日会ったばっかのくせして人の性格が読めちゃうんだ」
「君のことならよく知ってる。何度も助けてもらったって言ったろ」――悪夢のなかで。紗架は僕や大勢の人々を救うために殺人を楽しむ凶悪犯と戦ったのだ。
「あたしが? 何度も助けた?――」季節につりあわない革製の赤いロングコートが夜気を含む風に靡いた。
ショッピングモールの駐車場を白い影が過る。
猫だ。ウツツのことを思いだす。朝から留守にしたまま何もあげていない。随分お腹を空かし待ち侘びているに違いない。
「もう帰らなきゃ――」僕の話を信用したために恥をかかせて済まない――心のなかで謝罪しながら視線を伏せた。
紗架に腕を摑まれる。「何で事件は起きなかったのかな?――変じゃない? 起きるはずだったんでしょ? 確かな筋からの情報なんじゃないの?」
まさか夢に見たとは言えない。
「でも確かにそうだ……」どうして悪夢に見た出来事は実際に起こらなかったのだろう。しかも今度の夢に限って。これまで見た夢は全て現実のものとなってきたのに――僕が犠牲になる点を除いては。
そうだ,恐ろしい出来事の発生を夢で知った僕は,現実世界における悪夢の実際化に臨場することを回避してきた。だが今回の場合は違う。敢えて悪夢の実際化する現実に立ちあおうとしたのだ。その点がこれまでの悪夢と今回の悪夢との歴然たる相違だ。
「気分でも悪いんじゃない?」厚底ブーツの爪先が接近する。「おじさん?……」鼻先にくっつきそうな丸い瞳の奥へと吸引されそうになる――
視界が闇に閉ざされた。かと思いきや眼底が歪んでぎざぎざに罅割れ,鋸歯みたいな割れ目の隙間から肌色の粘液体がぶよぶよ浮上しつつ結びあっては塊となり突如落下しながら降りつもっていく……
ぎょっとした。堆積物の一つ一つは人間の生首なのだ。旭日章のついた制帽を被る,首から下のない頭が幾重もの層をなしていく。
首層の一角から声が聞こえる。僕の名を呼んでいる。血糊で汚れた生首の密集群に腕を突きさせば手指が食いちぎられた。見るみるうちに腕の肉と骨とを嚙み砕かれ密集群にのみこまれていく。もう体の半分は餌食となったが,片腕で生首の一つを摑みとる――それは粘った血に凝り固められ両眼をあけられないでいる僕の生首だ。
「逃げなかったね! 偉かったね! 早く早くこっちだよ!」丸々と肥えたペルシア猫に瞼をなめられる……
「ウツツ……」
喉を解せば発条みたいな振動音が指に伝わってくる。
「おじさんちの猫?」紗架が毛足の長い真っ白なウツツの胴を撫でた。
「おじさんはないでしょ――」後ろから間部が気の毒げな口調で言う。「結夢は俺と同い年ですよ」
僕はアスファルトの上に倒れ,間部に背後から上半身をかかえられていた。
「だったら,やっぱ,おじさんじゃん」
「お嬢ってば――」
ウツツが僕の胸に飛びのり足踏みした。催促するときの合図だ。
「お腹が空いてるんだな――分かったよ,すぐに帰ろう」
ギャンと拉げた声をあげ,唇に嚙みついてくる――え?……
噴水のなだらかな噴射が,夜空に咲く花火のように突き破られた。周囲に停まる複数の車両へ乗りこもうとする覆面警察官が次々に斬首されていく――正気のない目をつりあげた男が高笑いしながら日本刀を振りまわしている。夢に見た銃乱射事件の殺人犯だった。
辺り一帯を埋め尽くす生首と胴体の堆積に血の雨が降りしきる――現実世界における悪夢との戦いに対峙して,いつもの臆病に憑かれそうな僕を,ウツツの青い瞳が射ぬいた。
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