7人が本棚に入れています
本棚に追加
2「やばい、病んでる、あたし」
男にフラれておかしくなった女が、そいつの絵を切り刻みに向かっている。
アスファルトの歩道には泥の水たまりができている。でもあたしは水たまりをよけずにガシガシ歩いた。
コートに泥はねが付いているだろうけれど平気だ。どんなに汚れても、これからやろうと思うことに比べれば、ぜんぜん大したことじゃない。
頭上にはグレーの雪雲。向かい側から、カップルが歩いてくる。
それを見たあたしは、ごく自然に、くたばれと思う。
やばい、病んでる、あたし。どす黒いものが、どんどん降り積もってくる。
そんな人間じゃなかったんだけどな。
半年前のあたしは、明るくて、誰とも気軽に話せた。
コートのポケットにパレットナイフを入れて、平気で泥の水たまりに足を突っ込む女じゃなかった。
何もかも、健太のせい。あのアホ元カレのせい。
あたしの思考は何度も何度もループする。
どす黒い記憶が降り積もっている場所へ。
💧💧💧
健太は、あたしが知り合いの先生に頼んだ個別指導に黙ってついてきた。
はじめは、あたしが課題の講評を聞いているあいだ、ただ聞いていた。やがて、おずおずと自分の課題をあたしの後に出すようになり、そのうち、ふたつの課題が並ぶようになった。
あたしは先生に申し訳なくて、二人分の個別指導のお金を払った。健太にはないしょで。
あたしは健太のカノジョなんだし、それくらい、いいかなって思ったんだ。健太のために「やってあげる」ことが、優越感になっていたんだと思う。
だけど。
恋愛では、上下関係を作ると面倒になる。それに健太はプライドの高い男だった。個別指導の後、ちょっとしたことを言うようになった。
『翠の絵さ、色が多すぎるよね。アクリル絵の具を好きなように使えるからかな。俺なんて金がないから、せいぜい三色しか使わない。それがいいって先週も褒められたけどね』
あたしはそんなことない、って言い返した。しかし家に戻って自分の描いたものを見ると、一気に自信がなくなってくる。健太の言う通りかもしれないと思う。
そこで次は、今までとは全く違うテイストのものを作っていく。先生はうなる。健太は言う。
『今回のアレ、ないわー。ひどかったね。デッサンも色合わせもぐちゃぐちゃじゃん。どうしちゃったのよ、ミドリちゃん。それに比べて、今回も俺、だいぶいい線になったって言われたよ』
やがて、あたしはカンバスを見ても何も浮かばなくなった。色も形も見えない。代わりに健太の言葉が文字となって浮かぶようになった。
そして最後のとどめが、来た。部屋で絵を描いているときに健太が後ろからのぞきこみ、こう言ったんだ。
『ねえ、少し休んだほうがいいよ、翠。構図も描線もメチャクチャになってる。翠のいいところが、ひとつもない』
あたしは絵筆を落した。
気が付けば、カンバスにもあたしのなかにも。ただ黒いものだけが降り積もっていた。
そしてあたしが描けなくなっているうちに、健太は上手に先生たちに取り入っていた。
いつのまにか。
世界は健太のいいように、変えられていた。
最初のコメントを投稿しよう!