2「やばい、病んでる、あたし」

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2「やばい、病んでる、あたし」

 男にフラれておかしくなった女が、そいつの絵を切り刻みに向かっている。  アスファルトの歩道には泥の水たまりができている。でもあたしは水たまりをよけずにガシガシ歩いた。  コートに泥はねが付いているだろうけれど平気だ。どんなに汚れても、これからやろうと思うことに比べれば、ぜんぜん大したことじゃない。  頭上にはグレーの雪雲。向かい側から、カップルが歩いてくる。  それを見たあたしは、ごく自然に、くたばれと思う。  やばい、病んでる、あたし。どす黒いものが、どんどん降り積もってくる。  そんな人間じゃなかったんだけどな。  半年前のあたしは、明るくて、誰とも気軽に話せた。  コートのポケットにパレットナイフを入れて、平気で泥の水たまりに足を突っ込む女じゃなかった。  何もかも、健太のせい。あのアホ元カレのせい。  あたしの思考は何度も何度もループする。  どす黒い記憶が降り積もっている場所へ。  💧💧💧  健太は、あたしが知り合いの先生に頼んだ個別指導に黙ってついてきた。  はじめは、あたしが課題の講評を聞いているあいだ、ただ聞いていた。やがて、おずおずと自分の課題をあたしの後に出すようになり、そのうち、ふたつの課題が並ぶようになった。  あたしは先生に申し訳なくて、二人分の個別指導のお金を払った。健太にはないしょで。  あたしは健太のカノジョなんだし、それくらい、いいかなって思ったんだ。健太のために「やってあげる」ことが、優越感になっていたんだと思う。  だけど。  恋愛では、上下関係を作ると面倒になる。それに健太はプライドの高い男だった。個別指導の後、ちょっとしたことを言うようになった。 『翠の絵さ、色が多すぎるよね。アクリル絵の具を好きなように使えるからかな。俺なんて金がないから、せいぜい三色しか使わない。それがいいって先週も褒められたけどね』  あたしはそんなことない、って言い返した。しかし家に戻って自分の描いたものを見ると、一気に自信がなくなってくる。健太の言う通りかもしれないと思う。  そこで次は、今までとは全く違うテイストのものを作っていく。先生はうなる。健太は言う。 『今回のアレ、ないわー。ひどかったね。デッサンも色合わせもぐちゃぐちゃじゃん。どうしちゃったのよ、ミドリちゃん。それに比べて、今回も俺、だいぶいい線になったって言われたよ』  やがて、あたしはカンバスを見ても何も浮かばなくなった。色も形も見えない。代わりに健太の言葉が文字となって浮かぶようになった。  そして最後のとどめが、来た。部屋で絵を描いているときに健太が後ろからのぞきこみ、こう言ったんだ。 『ねえ、少し休んだほうがいいよ、翠。構図も描線もメチャクチャになってる。翠のいいところが、ひとつもない』  あたしは絵筆を落した。  気が付けば、カンバスにもあたしのなかにも。ただ黒いものだけが降り積もっていた。  そしてあたしが描けなくなっているうちに、健太は上手に先生たちに取り入っていた。  いつのまにか。  世界は健太のいいように、変えられていた。
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