7人が本棚に入れています
本棚に追加
3「クズな元カレを、ずたずたにしてやりたい」
あたしが絵を描けなくなって引きこもっている間に、元カレの健太(けんた)は皆に勝手な話をしたらしい。
『翠(みどり)はいま、調子が悪くてね。俺が付いているから、いずれ描けるよ』
『カノジョ? ちがうちがう。ただの、創作仲間だよ。まあ、翠のほうは、俺をメチャクチャ好きみたいだけどね』
みんな、信じた。健太はこぎれいな男で、性格がいいヤツに見えたから。
あたしは恋愛に依存して絵が描けなくなったおかしいオンナ、と認識された。逆に健太のイメージは爆上がり。絵もうまくなって、描いたものをSNSに投稿するとイイネがつくようになった。
健太は新しいカノジョを作った。
だけどもう、あたしは何もかもどうでもよくなっていた。外に出ることもなくて、ただ部屋で使わなくなった画材とすごしていた。
とにかく自分が引き起こしたことだから、ひとりで引っかぶればいいと、思っていた。
今朝までは。
雪がぬるんだ音を立てて車にはね飛ばされる音を聞くまでは、そう思っていたんだ。
あの時、気がついた。
あたしは、勝手に不幸になりたがっていたんだって。
健太に利用されたことも、健太に勝手なことを言わせておいたことも。全部、あたしが決めたことだった。
だからこそ。自分の決断で、何もかもひっくり返すことができる。
一月の歩道をゆく北風に、コートの裾がはためく。あたしはポケットのなかでパレットナイフを握りしめた。
目の前のギャラリーの窓は大きくて、ブラインドが半分ひらいていた。薄く曇ったガラスの向こうに学生がいて、絵をかけたり位置を変えたりしているのが見えた。
そのなかに、健太がいた。絵をもって笑っていた。白梅の枝とウグイスを描いたもの。構図に見おぼえがある。以前、あたしが個人指導の課題で描いた小品とそっくりだ。
どろっと、黒いものがあたしの中に湧き上がる。心に降り積もった真黒なものが、地吹雪となって舞い上がった。
握っているパレットナイフの柄が、冷たい。
こいつをあの絵に突き立てたら、どんなに気持ちがいいだろう。画面を切り裂いたところからは、きっとどす黒いものが出てくる。
健太のずるさ、浅はかさ、薄汚なさがあふれ出して、みんな、あいつがどれほどのろくでなしなのか、初めて知るんだろう。
あたしは薄笑いを浮かべて、ギャラリーに上がる階段に足をかけた。
そのとき。
背後から、甲高い声がした。
「翠ちゃん、なにしてるの?」
振り返ると、水色の帽子をかぶり、ランドセルを背負った姪の澄(すみ)がいた。
澄は三つ編みにした頭をかしげて、ギャラリーの中を見た。
「絵だね。翠ちゃんの絵もあるの?」
あたしの背筋が、ぞわりとした。
澄を、この子供を、巻き込んじゃいけない。でもあたしはどうやっても、あのクズな元カレをずたずたにしてやりたい。
あたしはポケットの中で、ぐいっとパレットナイフを握りしめた。
最初のコメントを投稿しよう!