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4「あいつは下手っぴ」
姪の澄は、ランドセルを揺らしながら、あたしのクソ元カレがいるギャラリーをのぞきこんだ。
「ねえ。翠ちゃんの絵はどこ?」
「あー、今回は絵を出してない……澄、あんたもう下校時間?」
「今日は学校が、お昼までなんだ。翠ちゃん、いま、あんまり描いてないよね。あたし、翠ちゃんの絵が好きなのにな。ほら、アレみたいなやつ」
澄は手袋をはめた手でギャラリーのなかを指さした。
「白い花と緑の鳥がいる絵。ああいうのを見てると、手がぽわぽわしてくるんだ。でもさ……」
澄は小さな額にしわを寄せた。あたしはぎくりとして尋ねる。
「でも?」
うん……と澄は言いづらそうに黙った。それからガラス越しに、健太と絵を見たまま言った。
「あれ、へたっぴだね」
「下手っぴ?」
澄はまるまるした顎で、うなずいた。
「だって、見てても手があったかくならないから。なんか、線も色もヘン。きもちわるい」
ばしゃ! と、あたしの後ろで泥水が跳ねた。自転車が風音を立てて、通りすぎていく。あたしは澄を見て、もう一度ギャラリーの中を見た。
健太がいる。中途半端に小ぎれいで、器用に絵をかく男。
体力はあるから一気に何枚もの絵を仕上げるけど、構図も色づかいも、どこかで見たことがある平凡なものばかり。本当は人間ぎらいで、人物デッサンはどれだけやってもアタリがとれなかった。
『下手っぴ』
澄の声が響く。あたしの手からパレットナイフが落ちた。ポケットから手を出す。空っぽになった手のひらは、薄く汗をかいていた。
「翠ちゃん、手が汚れたの?」
隣で澄が言う。うん、と答えると、ごそごそとハンカチを出してきた。真っ白で、ふちにグリーンのラインが入ったハンカチだ。
「かしてあげるよ。どうせポケットにはゴミしか入っていないんでしょ」
「うん……ゴミしか入ってない」
あたしは笑いながら姪にハンカチを借りて、そっと手のひらをぬぐった。どす黒いものの残滓が、澄の声で清められていく。
「澄、ケーキでも食べに行く?」
「寄り道すると、ママに叱られる」
「今からママに電話してあげるからさ――」
💧💧💧
あれから十年が過ぎ、あたしの目の前には高校生になった澄がいる。
「……そんなこと、あったかなあ?」
澄はケーキを食べながら首をかしげる。右手にフォーク、左手にスマホ。カフェの中にはにぎやかな音楽がかかっている。
「覚えてないよ。翠ちゃんとは何度も下校途中に会ったから。あ、もう一個、食べてもいい?」
「あんた、次で三つめだよ」
「あたし、お腹が空いてんだよね。それにほら、外は雪が降っているし。栄養つけたほうがいいんだよ」
あたしは澄につられて外を見た。
二月四日。立春が過ぎ、冬は終わった。春の雪は道に降り積もらない。
あたしは、春の雪が好きだ。素直にとけてしまい、次の季節に備えているみたいだから。
そしてあたしは姪に視線を戻す。三つ目のケーキを選んでいる澄。あの日、あたしを正気に戻してくれた子供が、ここにいる。
彼女はあたしの、春告げ鳥。
暗い冬を終わらせ、春を連れてくる春告げ鳥だ。澄は今も丸い顔を上げて、あたしを見た。
「翠ちゃん、モンブランにする」
あたしは笑って、三つ目のケーキをオーダーするために手を挙げた。
【了】
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