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1「あたしを利用して、あたしをつぶした男」
冬の雪は、音を吸い取る。この世に必要な音すら、吸い取って消してしまう。春の雪は騒がしい。すぐにぬるんで、水になるからだ。
別れた男のために買った部屋着を着て、あたしの身体は縮こまっていた。冷え切ったキッチンで、とっくに冷めた紅茶を見つづける。
同じことばかり考える。
あたしを利用して、あたしをつぶして、のし上がっていった健太(けんた)のことを。
いま、何を作っても絶賛される嫌な男のこと。
あたしが描くものと彼の作品の差が、わからない。ただもう、圧倒的な黒さに打ちのめされて、あたしはただ、音もない二月の午前中をやり過ごしている。
部屋の中にはアクリル絵の具が放り出したまま。
外を見る。雪の雲はグレーで、中途半端に明るい。その中途半端さが、急に腹立たしくなった。
ぬるんで、車が通るたびに水音を立てる春の雪に腹が立つ。
男に捨てられ、ただ黙って紅茶のマグカップを見ている自分を殴りつけたいほどに腹立たしくなった。
あたしは立ち上がり、部屋着を脱いで捨てた。服を着て、コートをはおった。部屋から出ていこうとして、とっさに画材のなかからパレットナイフをつかんでポケットに突っ込んだ。
火曜日の朝十時。
健太はギャラリーでグループ展の準備をしているはずだ。
ぶん殴って。
あいつの絵を、パレットナイフで切り刻んでやる。
健太とはイラストレーターの専門学校で知り合った。彼の描くものは基本がなくてメチャクチャ。あたしの絵もうまくなく、健太と同じくらいだった。ふたりとも課題の評価では下の下。何をどう描いたらいいのか、先生たちからどれだけアドバイスを受けても、わからなかった。
健太とふたり、カフェでうめく日々が続いていた。
Sサイズのコーヒーカップをにらんで、健太が言う。
「俺、うまくなりたいんだ。課題講評の上位に食い込みたい」
「あたしだってそうだよ」
「翠(みどり)はいいよ。あの学校の先生たち、ほとんどが澄のオヤの知り合いじゃん。いろいろ聞けるだろ」
あたしは黙っていた。
絵って、つまりは才能だ。うまい人は些細なアドバイスで花開くし、ダメな奴は本一冊ぶんの言葉をもらっても、ダメだ。そしてあたしはダメなほう。オヤのコネとか、何の役にも立たない。
でも健太は真剣な顔で言った。
「俺、先生に個別指導を頼みたいんだ。でも金がない。翠、頼むよ。お前が個別を受けるところ、いっしょに見させてくれよ。見るだけでいいんだ」
あたしはため息をついた。たしかにあのイラストレーター専門学校の先生たちは、うちの家族の知り合いだ。というか、皆には内緒にしてあるけど、あの学校は叔父のものだ。あたしはお情けで入れてもらった。先生には、お金を払えば個別指導を受けられる。そういう立場だ。
「頼むよ。俺は翠くらい、うまくなりたいんだ」
あたしもへたくそだよ、とは、言わなかった。くだらない自尊心が、あたしの中にあったからだ。そして目の前の健太を、喜ばせたかったから。
「いいよ」
そう言った後の帰り道。健太がキスをしてきた。変にうまいキスを受けながら、あたしは考えた。
『これは、一種の支払いなのかな』
明らかな支払いだった。そしてあたしは、健太に押しつけられた愛情の借金を返済するために、大事なものを失うことになった。
ずっと、親友だった絵が、描けなくなったんだ。
あたしが描けなくなったのは、あいつのせい。
そうじゃないって誰が言っても、あたしにはわかっている。
何もかも。あいつのせいだ。
あたしは首をふって、二月の曇天の下へ出ていった。
ポケットには、握りしめたパレットナイフが、ある。
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