隠し事の勧め

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 俺の父は控えめな物腰の柔らかい男だった。  典型的な『かかあ天下』な家庭とまでは言わなくとも、当直、夜勤は当たり前で、身を粉にして働く母を妻に持てば、亭主関白なんて気取ってはいられない。 そんな調子であれば「何を考えているのか!?」と、母は元より、周囲からもどやされることは間違いない。  父は大手電機メーカーに勤める機械系エンジニアだった。  家でも大抵は倉庫で何かと工具を弄って籠っていることが多く、趣味と仕事が直結していることは間違いなかった。  弟と一緒にこっそり忍び込んで、油の刺した匂いに鼻を摘まむ。 「倉庫は何かと危ないから、勝手に入らないように」 後ろ背に父が居て、飛び上がらんばかりに驚いた。 「というか、邪魔になるから入らないように」 何度も摘まみ出された記憶がある。  いつも、覗き見するくらいで何を作っているのかまでは知らなかった。  母に訊ねれば、母も知らないと首を横に振る。 「あの人は根っからの仕事人間なの。ああしていれば機嫌がいいからそれでいいのよ」 決して皮肉などではなく、母は本心からそう言っているように俺には聞こえていた。 「何?あんた、父さんに何か用事でもあったの?」 父に用があることなどこれまで無かった。 もっと幼いころからそうだったのだ。 父というのは『そこにいる人』であり、俺も母と同じでそれで十分だった。 そこにいる人で納得し、それに対して寂しく想うことも無く、特に不満があるわけでも無かったのだ。  ただ、『仕事』だったり、『将来』というものを意識し始める中学生に上がった頃には、それが気になる存在に変化する。 「いや、ちょっと気になっただけ。何がそんなに面白いのかなって」 「ふぅん、あんたも興味あるならエンジニアの道を目指してみれば?割と稼げる仕事よ」 誰もが出来ることでは無い、職人の仕事をしている父を、少し誇らしげに思うようになっていた。  でも、そんな父でもたまに父親スイッチが入るのか、俺と弟が公園でキャッチボールをしているところへ不意に現れたりすることもあった。 その日もそうだった。 「父さんも一緒にしてみてもいいか?」 こうした時、『してやる』というような、大抵の親が子に向ける横柄さが無いことも、俺は好ましく思っていた。 「いいよ、はい」 填めていたグローブを父に貸す。 「ええぇ、俺は兄ちゃんとしたい」 俺より二つ下の弟には、まだ父の良さというものが分かっていないようで、こうした言葉を節々で平気で使うから、子供心に俺としては気が気でなかった。 「三角キャッチならいいだろう?つべこべ言うなよ」 「なら、父さんがグローブ無しで良いぞ」 父は父で、そんな弟を相手に下手(したて)に出るものだから、こうした場合に一番気を遣うのは俺だった。 「いいよ、慣れないくせに父さんは怪我したら不味いじゃん」 父がへなちょこなことは十分に知っていた。 俺は少しばかり得意げになって三角の頂点に向かい立って、手を掲げた。 「ヘイ!」 父のコントロールは、先ず、ちゃんと狙いに飛んでくるか分からないレベルだ。 ふわっと遠慮がちに投げられたボールは、案の定に大きく狙いが外れる。 想定内のことに、難なく俺は素手でキャッチする。 そして、ぶぅタレた顔のままの弟に向かって鋭く牽制球。 「わわっ!」 グローブを弾くその勢いに、弟は面喰って怒った。 「兄ちゃん、いきなりかよ」 益々ブゥたれた顔で、後ろ背に遠く転がった球を拾いに走った。 「うるせぇぞ、ぼぅっとしているからだろう?」 お前のエラーだと俺は囃し立てた。 「お前、いつの間にそんなに肩が強くなったんだ?」 父は驚いて俺を見遣った。 「強くないよ、今どきの中学生はこれが普通」 野球部でもあるまいし、俺は父のように下手クソのレベルではないにせよ、あくまでも凡人レベルだ。 「あいつのが俺よりいくらか才があるよ。見てて」 草むらでボールを拾い上げている弟に向かって、俺は顎先を向けた。 遠く、弟が叫んで振りかぶる。 「いっくよぉお」 大きく投げたそれは、小学生のくせに父が取るには丁度良い具合にワンバウンドかそこらで返球してきた。 「お、おお。凄いな。此処までちゃんと届いた」 「ね?」 「お前が鍛えてやっているからだろうな。俺がもう少し上手かったらなぁ」 父は少しばかり悪びれたように、それを俺に返球した。 「いいんじゃないの?別に」 父と一緒に遊びたいなどと、俺は正直思ったことは無かった。 弟がいたからなのかもしれないが、そこは弟の言葉通りだった。 少年野球に入っていた友人なんかには、そうした親を持つ奴は中にはいるが、俺は父にそんなことは求めていない。 どう考えてもちぐはぐで、それは俺の父では無かった。 「そんな父さんって、どう考えても変じゃん」 俺は鼻で嗤って、父に返球する。 「そ、そうか……」 受け損なって、填めているグローブに意味があるのかないのか、辛うじて俺の球をキャッチしていた。    俺の父は仕事人間のメカニック――それでいいと素直にそう思っていた。
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