妊活の勧め

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妊活の勧め

 結婚して五年、俺――立原真司(たてはら しんじ)と、その妻、紀子(のりこ)の間に子供はいない。    そして今、俺たち夫婦の前に眦を引き上げ、仁王立ちしているのは俺の母親だった。ガキの頃から見慣れたこの姿に良い思い出はない。 「母さん、朝っぱらから何の連絡も無しに普通来るか?」 「あら、子供の家に行くのに何を遠慮する必要があるの?ねぇ、紀子さん」 「は、はい。勿論、いつでもお待ちしておりますよ、お義母(かあ)さま」 紀子は慌てて玄関棚から客用スリッパを取り出し、母の前に据え置いた。 「ふふっ、ね?私と紀子さんの間柄だもの」  都内の総合病院で看護士長をしているだけあって、その威風堂々とした風格たるは流石である。  父が胃癌と診断された折しも、『切ってしまえば十年も二十年も生きるものだから、大事に至らないわよ』と、落ち込む本人を前に、鼻で嗤い飛ばしただけはあると、俺はごくりと喉を鳴らした。  客間に通され――否、押し入った母は、紀子が淹れたコーヒーを啜った。 「紀子さんはコーヒー淹れるのがお上手ね」 お上手も何も、それはただのインスタントである。 「あら、お義母様もインスタント派ですか?私、本格的に淹れたものは一日に一回で満足できる味わいというところが、残念で……。日に何度もリラックスタイムを味わいたいので、インスタントで十分なんです」 うちにドリップ式が無いのはそういう訳だった。 因みに俺は麦茶で十分派だったりする。  コホンと、徐に母は咳払い一つで本題に入った。 紀子の天然なのか、狙っているのか分からない話に、きっと、ついていけなかったに違いない。 「妊活するのが今どきの夫婦というものよ。あなたたちは恵まれた時代で、本当に良かったわね」 差し出されたチラシは不妊治療専門のクリニック。  朝早くにいきなり訪ねて来て、のっけからこれである。 「不妊治療はお金がかかると聞くけれど、あなたたち共働きなんだから、それくらい出せない訳じゃないでしょう?」 「か、母さん、何もそこまでしなくても……子供は天からの――」 「人の手で何とか出来るかもしれないことまで、神様だって知りゃあしないわよ」 聞く耳を持たないどころか、話す間さえも与えない豪胆さ。 「まさか、私に孫を抱かせてくれないつもりじゃないでしょうね?」 孫ならいるにはいる。 「弟のとこに子供がいるじゃ――」 「あっちは婿養子に出したようなものよ。由紀子さんの方にべったりで、一向に帰って来やしないじゃないの!!!」 母の前で弟の話はタブーだった。 寂しいなら寂しいと素直に言えば良いのに、意固地な母である。  産まれた子が喘息持ちだったことをきっかけに、弟はあっさりと仕事を辞めて、奥さんの実家の営む農業を手伝うと言って、北海道に移住したのだ。  せっかく大手商社に勤め始めたばかりだったというのにと、母は臍を噛んでいるが、俺は素直に感嘆したものだ。 「予約しておいてあげたから、休日デートだとでも思って行ってらっしゃい」 まるで映画のチケットをくれるかのように言うが、どう考えてもあり得ないデートプランニングだ。  取り敢えず頷くだけ頷き、さっさとお帰りいただこうと、俺は何とかこの場を凌ぐことしか考えていなかった。 「分かったよ。で、予約はいつなんだよ」 後でキャンセルでもしておこう。 「あら、もう出ないと間に合わないわね。早く行きなさい。10時だから」 「なっ!?」 俺は慌てて場所を確認して、時計を見る。 「思い立ったが吉日、今日じゃない?」 母は勝ち誇ったかのようにニンマリと微笑んだのだった。
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