初陣の勧め

6/15
前へ
/66ページ
次へ
 果敢に風呂場から出たものの、鼻孔を擽るビーフシチュウの匂いにくぅっと、腹の虫が鳴る。ソファに掛けてあったカーディガンをパジャマの上に羽織って、いそいそと台所に向かった。 「今日はビーフシチュウなのね?」 ぱぁっと、土曜出勤のご褒美に顔を輝かせる。 「随分と長々しい風呂だったな。また、風呂で寝ていたのか?」 お陰で冷めたじゃないかと、夫は再び鍋に火を点けていた。  この日ばかりは、私が殿(との)役で良いのが、私たち夫婦の取り決めだった。 夕飯を作るのは勿論のこと、給仕も片付けも夫がしてくれる。  私が食卓に着くと、前の席の空皿をひょいっと取り上げ、夫は流し元へ運んでいく。 「もう食べちゃったわけ?」 「風呂で寝ている奴を待てるかよ。俺はこれから晩酌」 いそいそと嬉しそうに、ワインと肴にするナッツ類を小皿に入れて持ってくる。 「珍しいね、今日はワインなんだ」 大抵はビールだけれど、夫は何でもいける口のひとだ。 「ん、スーパーで肉選んでたら、そういう気分になったから」 次いで温め終えたシチュウを、運んできてくれた。 「へい、お待ち」 寿司屋の板さんのようにふざけて、夫は私の前にホカホカのビーフシチュウを据え置いた。 他にもふっくらトーストしたてのロールパンにちぎり野菜のサラダ。 「ああ、幸せ。いただきます」 合掌する私に、杯を掲げる夫。 私たち夫婦はちぐはぐな乾杯を済ませて、互いに舌鼓を打った。 「ん、幸せだな」 美味しいワインだと、夫は赤紫色にくすんだ唇を舐めた。 「飲み過ぎないでね」 早いペースで二杯目を注いでいる夫に軽く忠告を入れて、私も黙々と食べることに集中した。 大きめのお肉がスプーンで千切れるほどに柔らかい。 ――うわぁ、きっとお高い奴だ。 圧力鍋を使っても、筋が残ったりしてなかなかこうはならないのよね。 牛肉は別格として、ビーフシチュウの中で私が最も外せない食材は、じゃが芋だった。 ごろんとしたそれは、煮崩れしていないところを見ると、肉に圧力掛け終わった後で、ことこと弱火で煮込んでくれたのだろう。 ソースと絡んでいるそれにスプーンを挿しこめば、のっちりとした春色が覗いた。 ――ううぅん、やっぱり新じゃが、最高っ!!! 「くっふふ。紀子は食べている時は静かだよな」 じっと見つめられていることに気付いて、はっとする。 美味しいものにつられて、百面相を繰り広げていたに違いない。 「どうせ、食いしん坊です」 「そんなことは言ってない。作り手冥利に尽きるって、言ってんの」 「美味しいわよ、凄くね。それに、私はひと月に一度の楽しみを堪能しているの」 「お望みなら、明日も作ってもいいけど?」 そそられる提案をされるも、私は首を横に振った。 今日がシチュウならば明日はどうせカレーだろう。 夫はお料理上手なのだが、全般が煮込み料理なのだ。 あと、冬であれば鍋。 何よりコスト超過気味なことは明白。 「いいえ、ご褒美だからいいの。たっぷりあなたに甘えられるから」 そんな言葉で誤魔化し、私はパンをちぎって口に含んだ。 「くくくっ。そんなのいつでもいいのに」 いつでもなら気が引けることでも、特別なら自分を許せる。  苦笑いが顔に出ていたかもしれないが、本心であるには違いなかった。 今日は存分に甘えて良い日なのだ。 だからきっと大丈夫と、私は自分に言い聞かせていた。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

65人が本棚に入れています
本棚に追加