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果敢に風呂場から出たものの、鼻孔を擽るビーフシチュウの匂いにくぅっと、腹の虫が鳴る。ソファに掛けてあったカーディガンをパジャマの上に羽織って、いそいそと台所に向かった。
「今日はビーフシチュウなのね?」
ぱぁっと、土曜出勤のご褒美に顔を輝かせる。
「随分と長々しい風呂だったな。また、風呂で寝ていたのか?」
お陰で冷めたじゃないかと、夫は再び鍋に火を点けていた。
この日ばかりは、私が殿役で良いのが、私たち夫婦の取り決めだった。
夕飯を作るのは勿論のこと、給仕も片付けも夫がしてくれる。
私が食卓に着くと、前の席の空皿をひょいっと取り上げ、夫は流し元へ運んでいく。
「もう食べちゃったわけ?」
「風呂で寝ている奴を待てるかよ。俺はこれから晩酌」
いそいそと嬉しそうに、ワインと肴にするナッツ類を小皿に入れて持ってくる。
「珍しいね、今日はワインなんだ」
大抵はビールだけれど、夫は何でもいける口のひとだ。
「ん、スーパーで肉選んでたら、そういう気分になったから」
次いで温め終えたシチュウを、運んできてくれた。
「へい、お待ち」
寿司屋の板さんのようにふざけて、夫は私の前にホカホカのビーフシチュウを据え置いた。
他にもふっくらトーストしたてのロールパンにちぎり野菜のサラダ。
「ああ、幸せ。いただきます」
合掌する私に、杯を掲げる夫。
私たち夫婦はちぐはぐな乾杯を済ませて、互いに舌鼓を打った。
「ん、幸せだな」
美味しいワインだと、夫は赤紫色にくすんだ唇を舐めた。
「飲み過ぎないでね」
早いペースで二杯目を注いでいる夫に軽く忠告を入れて、私も黙々と食べることに集中した。
大きめのお肉がスプーンで千切れるほどに柔らかい。
――うわぁ、きっとお高い奴だ。
圧力鍋を使っても、筋が残ったりしてなかなかこうはならないのよね。
牛肉は別格として、ビーフシチュウの中で私が最も外せない食材は、じゃが芋だった。
ごろんとしたそれは、煮崩れしていないところを見ると、肉に圧力掛け終わった後で、ことこと弱火で煮込んでくれたのだろう。
ソースと絡んでいるそれにスプーンを挿しこめば、のっちりとした春色が覗いた。
――ううぅん、やっぱり新じゃが、最高っ!!!
「くっふふ。紀子は食べている時は静かだよな」
じっと見つめられていることに気付いて、はっとする。
美味しいものにつられて、百面相を繰り広げていたに違いない。
「どうせ、食いしん坊です」
「そんなことは言ってない。作り手冥利に尽きるって、言ってんの」
「美味しいわよ、凄くね。それに、私はひと月に一度の楽しみを堪能しているの」
「お望みなら、明日も作ってもいいけど?」
そそられる提案をされるも、私は首を横に振った。
今日がシチュウならば明日はどうせカレーだろう。
夫はお料理上手なのだが、全般が煮込み料理なのだ。
あと、冬であれば鍋。
何よりコスト超過気味なことは明白。
「いいえ、ご褒美だからいいの。たっぷりあなたに甘えられるから」
そんな言葉で誤魔化し、私はパンをちぎって口に含んだ。
「くくくっ。そんなのいつでもいいのに」
いつでもなら気が引けることでも、特別なら自分を許せる。
苦笑いが顔に出ていたかもしれないが、本心であるには違いなかった。
今日は存分に甘えて良い日なのだ。
だからきっと大丈夫と、私は自分に言い聞かせていた。
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