初陣の勧め

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 紀子は幼いころの夢でも見ているのかもしれない。 紀子の口から母親のことが出るとは思わなかった。 俺の腕の中で眠っている紀子の、目尻に残る涙を拭う。 「これも俺が泣かしたうちに入るのか?」 入るんだろうなと、ワインを飲み干した時の紀子を思って苦笑する。 「……ったく、俺の気も知らないでだよ」 俺はそっと紀子の額に口付けた。  紀子の実家は父子家庭、離婚もさして珍しいものでは無いから、それに対して特に何かを思うことなど無かった。 『寡黙で何を考えているのか、分からないような人なんだけど、それならそれで、もう単純明快な人なんだって吹っ切って思うことにしたの』 案外きっと当たっているわよ?と、笑みを零す紀子は楽しそうだった。 それで俺も、親父さんとは仲良くやっているのだからと、母親のことを深く訊ねたことは無かったのだ。    でも、結婚する前に、一度だけ訊ねたことがある。 結婚の報告をするか否かを決めかねた時だ。 「親父さんはそれでいいとして、紀子の母親には?」 「要らないわ。連絡しようもないの」 あっけらかんと言っていたけれど、その眼だけは普段の紀子らしくなく、暗い影を落として見えた。    その理由を俺は後に知る。    いつだったか、紀子と一緒に帰省した時、親父さんと晩酌をしていた時だ。  紀子が風呂に入ったのをいいことに、親父さんは、戸棚の奥から紀子が小学生の時に作ったものだと言って、一つの茶碗を取り出して来た。  少々歪な形の茶碗は欠けて、ひび割れている。 接着剤でくっつけられた、不格好な茶碗。  そうであっても、これまで大切に仕舞われていることに、親父さんの紀子への愛情が伝わってきて、俺は微笑ましく思っていた。  だが、話はそう単純なものでは無かった。 「庭先で、あいつが自分で割ってたんだよ」 「気に入らなかったんですかね?」 「授業参観で、親と一緒に作るってイベントだったらしいんだ。そんなの俺はちっとも気に掛けてなくてよ。冷蔵庫に家内が張り付けたままのお便りなんざ、どうでも良かったんだ」 まぁ、男親ならそれも仕方が無く、それに妻が突然に出て行った頃の親父さんの心境を思えば、無理もないと思えた。 「あいつがそのお便りを冷蔵庫から引っぺがして、裂いてゴミ箱に捨ててなきゃ、全く気付かないままだった」 親父さんは酒をクイっと呷って、俺を試すように訊ねた。 「あいつ、それをいつ剥がしていたと思う?」 そのイベントが終わって、直ぐでは無いのだろうか? 「きっかり、その日時から、ひと月経ったその日だよ。あいつは待ってたんだ。何かとそそっかしかった女房が、授業参観の日時を翌週、あるいはひと月間違えてるんじゃないかって……、多分、待ち続けてたんだ」 鼻で嗤うように息を吐いて、親父さんは杯に入った酒の揺らぎを見つめていた。 「女房がよそに男を作って逃げたのは、その授業参観の前日だった」 苦々しく小さく零して、酒を呷る。 「まったく……親子そろって、莫迦だよ。そういういじらしい娘を顧みてやれなかった母親も、戻って来たなら迎え入れる気で心待ちにしていた娘も、そして、あやうく二人ともを失うところだった俺は、最たる大馬鹿野郎だよ」 娘の割った茶碗は己に向けての戒めだったのだろう。 親父さんは、『二の舞を演じるなよ』と、俺に明かしてくれたのだ。
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