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羽目を外そうと外すまいと、必ず夜は明ける。
私、立原紀子にとってもそれは例外ではない。
「勝負下着って、要るものなのかしら?」
見るも無惨に脱ぎ散らかされたそれを拾い上げ、未だ夢の中にいる夫を尻目に口を尖らせる。
――まるでそっちのけみたいに剥ぎ取ってくれてからに……。
映画のワンシーンのように、現実とはなかなかにして美しくいかないものだ。
肩を竦めて寝室を後にした。
証拠隠滅を図るべく、ランドリーバッグの中に下着を畳み入れて、お洒落着洗いを選択する。
それから浴室暖房を入れて、シャワーを捻った。
「冷たっ、はやく、はやく」
幾ら応援しようと、願おうと、早く出るものではない。
それでもせずにはいられない。
朝一のお湯とはすこぶる出ない、この時間と水がすこぶる何とかならないものかと思う。
ようやっと湯気が出始め、安堵の吐息と共に、鳥肌の立った肌にお湯を当てた。
「はぁ……」
熱いほどの湯に、身震いするも生き返る。
首筋にシャワーを当てながら、暫しその温かさに身を任せて目を閉じた。
浮かぶのは夫のことばかり。
『紀子……』
熱を帯びた声は、目を開けての合図。
して欲しくて、私は夫に諸手を伸ばしていた。
身体は正直もうへとへとだ。
けれど、交わしたすべての記憶を辿らずにはいられない。
だって忘れたくない。
私の欲望そのまま、欲しいと望むままに夫は応えてくれたのだ。
たとえ夫婦だって、次への保証などあるとは限らないと知っている。
いつ、何時に、何かのきっかけで、また失うかもしれないこうしたふれあいは、宝物のことのように貴重であると知った。
だからこそ、何度も思い返さずにはいられない。
そうでなくとも、互いに年月を重ね、いつしかこうしたふれあいも失われていくのだろう。
そうした時にも、互いに身体を重ねて求め合った事実は、私たち夫婦の共有する密事になる。
年老いた私は、若返って夢の中で夫に会いに行く。
――ふふっ、そういうのも楽しいのじゃないかしら?
いつだって、手を取り寄り添いながら、逢瀬を重ねられる夫婦でありたい。
ならば、いつ何時に向けて備えをするのは、家内安全への第一歩。
――だって、結婚とはそもそもお墓がゴールインだものね。
恋人同士のように求め合うばかりでは身が持たない。寄り添い合うのが夫婦の醍醐味。
シャアァァと、シャワーを浴室の鏡に向けた。
それには先ず、曇りなき夢ではない現実を、はっきりと目にしたかった。
「……っ」
『全部俺のものだ』と、主張する痕跡の数々に息を呑む。
その生々しさに目を逸らすも、悦びに笑みが浮かんで、私は思わず両の手で口元を押さえていた。
――ああ、もう!
夫がいちいち愛おしすぎて堪らない。
妻をこうも容易く一喜一憂させて、本当にそのうち罰が当たるんじゃないかと、本気で思ってしまう。
キスマーク――口紅の移った痕。口付けの痕。
それを初めて目にするまで、私は前者はともかく、後者は視覚として捉えられるものではないと思っていたのだ。
夫に初花を捧げた夜、初めて目にした口付けの痕を、私は不思議そうに見つめていた。
何も知らない生娘だったと、自らを省みる。
バスタブにお湯が膝にまで溜まったところで、私は身を沈めた。
『くふふっ、何だ、そんなことも知らなかったの?』
今よりも、少しばかり年若い声音が甦る。
私は、膝を抱えて口を尖らせた。
――だって、私にはあなたの他に先生なんていなかったもの。
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