妊活の勧め

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 カーナビにクリニックの住所を入力し、取り敢えずの心のままに発進する。  とんだ休日だとは思うが、何かに付けて強引な母のことだ。 此方が折れるまでは梃子でも動かないだろう。  そんな重苦しい沈黙の車中、最初に口を開いたのは紀子であった。 「あ、あの……ごめんね」 少しばかり俯いて、紀子は唐突に謝罪を口にする。 姑に早く孫を抱きたいだのせっつかれて、きっと責任を感じているのだろう。 「いや、俺も……。母さんの言うことは気にするなよ」 ああいう人だと、肩を竦めた。 「そうじゃなくて、産婦人科なんて行きたくなかったでしょう?」 「それは紀子もだろう?」 医師とは言え、見ず知らずの人の前で――。 これからすることになる検診を思って、俺はチラシに顎先を向けた。 「女性は女医が診るって書いてあったから、母さんもその辺くらいは配慮出来る人だったみたいだ」 「……」 紀子は何か言いたげに少しばかり口を開くも、下唇を噛んで顔を歪めた。 ――怖いのだろうな……。そりゃそうだよな。 俺はフロントガラスの向こう側を見つめながら、そっと紀子の手を握り込んだ。 「やめたいならやめていいよ。俺が母さんに取り成すからさ」 「うんん、吉日にするの。だって、私があなたの子供を抱きたいのだもの」 俺の手を握り返す紀子の手は力強く、途中棄権を放棄させるものだった。    クリニックは予約者専用となっており、来院者はそう多くなかった。 妻らしき女性に寄り添う男性も見受けられ、俺はほっと息を吐いていた。  照明は明るく、清潔感は勿論のことだが、母の勤める病院のように殺伐とした空気は無かった。 赤子の眠りを誘うような音楽が絶え間なく流れ、待合室は温かみのある色調で整えられている。 「なかなか綺麗な病院で良かったな」 小声で紀子に笑みを見せれば、紀子も安心したように息を吐いていた。 だが、俺がリラックスしていられたのもそこまでだった。  名前を呼ばれて紀子と共に診察室に入り、医師により不妊治療についての説明を受けた。 「――とまぁ、不妊の原因の半数は男性側にあるので、先ずは精液検査をさせていただきます。検査キットに採取して、後日搬送されてください」 当然のことのようにあっさりと告げられるが、目が点になる。 「えっと……検診は妻だけでは無いのですか?」 何の根拠も無く、そういうものだと思い込んでいたのだ。 「はい。ご主人にも受けていただきます。当院ではご夫婦の相互理解を正しくしていただくためにも、検査は等しく受けていただきます。そうでなければ正しい不妊治療にも至らないことが主な理由です」 きっぱりと告げられ、否やは言えなかった。  不妊治療――知識としてまったく知らなかったわけではない。 けれど余所事であったそれが己の身に降りかかって、ようやっと正しく認識できるものだ。  話を聞いた時こそ動揺したが、医師の説明の仕方に迷いやためらい、それに遠慮が無かったせいで、その言葉はスッと俺の胸に落ち着いた。  病院からの帰路の中、俺は、不安、戸惑い、そして期待が入り混じった、どこか春に臨むような身の引き締まる心地でいた。 「……俺たち、本格的に子作りに入ったんだな」 子供が欲しいか?――そう聞かれたのなら俺の答えは……。 「出来たら出来たで嬉しいよな、やっぱ」 想像に花を咲かせて、俺は知らず笑みを浮かべていた。 「……イヤじゃないの?」 「ん?」 「その……検診の為に、あなたの――」 精液を採取しなければならないことを言うのだろう。 余程言うに憚れる単語なのか、紀子はごにょごにょと口元を押えて目を伏せた。 「お前……結婚したのが昨日今日みたいだぞ?生娘でもあるまいし」 呆れるものの、『奥ゆかしい』――そんな今や忘れ去られたような言葉が当てはまる女だと知っている。  紀子は突然に顔を上げ、キッと、戦乙女のような眼差しで臨んで来た。 「私、責任は持ちますから」 「は?」 「あなたが……その、す、する時――」 耳の先まで真っ赤にさせて、紀子はこれまたか細い声で何やら呻いている。 「と、とにかく!その心構えなんです!」 何やら捨て台詞を吐くやそっぽを向いた。 責任を取る心構え? 数秒の黙考によりようやく理解に至る。 「くっ、くふふふ。ああ、頼むな」 家路に着くまでの復路はなんとも楽しいデートだった。  
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