初陣の勧め

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「紀子、寝るな」 はっと、現実に立ち返り、私は満面の笑みを浮かべていた。 「あのな、俺は叱っているわけで、君は叱られている側だからな」  風呂で寝るのは自殺行為だと、夫は顔を顰めながら狭いバスタブに、至極当然にして入り込む。  一緒にお風呂に入ることも、ここ久しく無かったことなど、すっかりお忘れのようだ。  ようやくにして取り戻せた日常。  個々であったものが、個に収まった。 なんら気付かぬふりをして、喜びを仕舞い込む。 「はい、気を付けます」 お利口さんな生徒を演じて、私は夫の為に場所を開けた。  それでも、ざぶっと増える湯量が楽しくて、私の笑みはますます深まった。 「どうした?ご機嫌だな」 どうしたもこうしたもない。 「只今、恋に酔いしれているの」 夫は少しばかり小難しい顔になる。 「何だそりゃ?そんなにいい男が出て来る夢でも見ていたのか?」  若かりし頃の恋人と、連れ添って随分という夫。 果たして軍配はどちらの手に? 悩ましいところだけれど、あの頃の真司さんはあの頃の私のものだ。 「まぁね、でもあなたほどじゃないわよ?」 今の私が恋に落ちているのは目の前の男であって、間違いはない。 「ふぅん?それはどうも」 素っ気ない返事ばかりか、寧ろ不機嫌な声音。 それは、どういった了見な訳? 今更、妻に一番だと言われたところでとでもいうのかしら? ──まったく失礼しちゃう。 私は口を尖らせた。 「ねぇ、真司さんは(私と)また恋をしたいとは思わないの?」 懐かしい夢に随分と浮かれていた私は、うきうきと提案する。 たまには手を繋いで買い物に行くとか? ああ、でもご近所さんの眼を思えば憚れるわね……。 妄想に耽る私に、夫は目を幾分吊り上げた。 「はぁ?思う訳ないだろ?何だよ、紀子はしたいのか?」 呆れかえった声音は、明らかに不機嫌を滲ませている。 「う、うん……?」 というか……もう既にしている。 まさに、現在進行形だ。 けれどそんなことよりも、私は『思わない』という夫の台詞に身を強張らせてしまった。  夫にとっては、昨夜の出来事はあくまでも『夫婦の営み』だったのだ。 そのことにショックを受けてしまう。  夫に非があるわけではない、あるわけではないと理解はあるものの、それでも心は酷く落ち込んだ。 それに──。 「……そんなに怒ること?」 「あのな、ただの仮定であってもそういうのはルール違反だろう」 ルール違反って? 「妻が夫に恋をしたらルール違反なの?」 まさか、『想いが重い』とでも言うのだろうか? 喉の奥が鈍く痺れた。 そうであるなら、あまりに悲しい。 「へ?夫って、何?俺っ?」 普段、冷静な夫にしては珍しく、素っ頓狂な声を上げた。  私はうっかりタイムスリップでもしていたのだろうか? そんな訳ない。 明らかに目の前の夫は、学生ではない。 寝惚けたことを言っているのは夫の方だ。 何だか徐々に腹立たしくなってきた。 「私たち今は歴とした夫婦なのよ?私が恋をするのは、あなたの他に誰がいるっていうの?」 私は彼の胸元を指さした。 彼の隙を突いて施した所有印(キスマーク)は、唯一無二の(つがい)の証。  それは今朝、寝コケている彼の腕の中で目覚めた私が、目の前にあったその場所に、こっそり仕掛けた悪戯だった。 「寝込みを襲う悪戯な行為だったけれど、誓ったそれに嘘はないもの」 非難する私に、夫は額を押えて天井を仰いだ。 「……ったく、焦らすなよ」  今の話の流れで焦りどころが何処にあったのか?  大抵のことは意思疎通できると自負していたというのに、どうやら矜持をくじかれた。  心を通わせるとは存外に難しいと知る。 「焦るって、どうして?」 「紀子は他に目移りしているのかって……」 「はぁ!?そんな訳な――」 声を荒げた私の唇に夫は指を添えた。 口を噤ませたのはその指先ではない。 私を見つめる夫が、酷く切なげな表情をしていたからだ。 何だか泣きそうにも見えて、私の胸までもが苦しくなってしまった。 「紀子はほんと……そういうところがブレないな」 先ほどのような呆れたそれでは無い。 少しばかり震えた声音は、敬意以外の何ものでもなく、優しいものだった。 「俺には勿体無い奥さんだよ」 最高の賛辞でもって、夫は私の額に口付けた。 触れるだけのどこまでも優しいキスは、忠誠を誓う騎士を思わせるそれ。 私は眩く微笑む夫を見つめていた。 「紀子、俺に恋をしてくれてありがとう」  そんな感謝をされる覚えは無い。 寧ろ、『私に恋をさせてくれる夫でありがとう』だ。  私は夫に恋をして欲しいと、ただ欲深いばかりだというのに、夫はまるで分かっていない。私はそんな神聖なものじゃない。 「……私があなたを落とすにはどうしたらいいの?」 つい、本人を前にして、泣き言を口にしていた。 夫は戸惑った様子で、唖然としている。 「勝負下着は何ら意味を成さなかったの」 出来の悪い生徒は、降参を示して答えを求めた。  効果の無かった哀れな下着を思い遣る。 「せっかく可愛い下着だったのに……」 つい、八つ当たりのように自白してしまった。 夫は目を瞠り、そして吹き零した。 「ぷっ、くふふっ。それは悪かった。でも、もう十分落ちているよ?まさか、分からなかったのか?」 確かに昨夜は激しく抱かれた。 でも、それが恋をしている証にならないことなど、私はとっくに知っている。 「だって、あなたにとっては『夫婦の営み』だったのでしょう?」 時を経て、酸いも甘いも嚙み分ける私たちに、あの頃のような純真さはない。 「今だって平然としているじゃない」 私は悔しさに目をそらした。 「平然?そう見えるのか?」 夫は自身の胸に私の手を添わせる。 早鐘を打つ心音は、私よりも随分と早い。 「これでも自制をするのが大変なんだぞ」 逆上せそうだと、夫は立ち上がる。 「責任、取ってくれるんだろう?可愛い、俺の奥さん」 否が応でもその言葉が嘘ではないと示されている。 目のやり場に困って、私は挑むように夫を見上げていた。 「の、望むところだもの」 何がどうしてこうなった? 心の在処を確認するだけの筈が、一から確かめ合うことになるとは……。  思いの他早くに訪れたリベンジの機会に、私が右往左往したことは言うまでもない。
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