65人が本棚に入れています
本棚に追加
「紀子、寝るな」
はっと、現実に立ち返り、私は満面の笑みを浮かべていた。
「あのな、俺は叱っているわけで、君は叱られている側だからな」
風呂で寝るのは自殺行為だと、夫は顔を顰めながら狭いバスタブに、至極当然にして入り込む。
一緒にお風呂に入ることも、ここ久しく無かったことなど、すっかりお忘れのようだ。
ようやくにして取り戻せた日常。
個々であったものが、個に収まった。
なんら気付かぬふりをして、喜びを仕舞い込む。
「はい、気を付けます」
お利口さんな生徒を演じて、私は夫の為に場所を開けた。
それでも、ざぶっと増える湯量が楽しくて、私の笑みはますます深まった。
「どうした?ご機嫌だな」
どうしたもこうしたもない。
「只今、恋に酔いしれているの」
夫は少しばかり小難しい顔になる。
「何だそりゃ?そんなにいい男が出て来る夢でも見ていたのか?」
若かりし頃の恋人と、連れ添って随分という夫。
果たして軍配はどちらの手に?
悩ましいところだけれど、あの頃の真司さんはあの頃の私のものだ。
「まぁね、でもあなたほどじゃないわよ?」
今の私が恋に落ちているのは目の前の男であって、間違いはない。
「ふぅん?それはどうも」
素っ気ない返事ばかりか、寧ろ不機嫌な声音。
それは、どういった了見な訳?
今更、妻に一番だと言われたところでとでもいうのかしら?
──まったく失礼しちゃう。
私は口を尖らせた。
「ねぇ、真司さんは(私と)また恋をしたいとは思わないの?」
懐かしい夢に随分と浮かれていた私は、うきうきと提案する。
たまには手を繋いで買い物に行くとか?
ああ、でもご近所さんの眼を思えば憚れるわね……。
妄想に耽る私に、夫は目を幾分吊り上げた。
「はぁ?思う訳ないだろ?何だよ、紀子はしたいのか?」
呆れかえった声音は、明らかに不機嫌を滲ませている。
「う、うん……?」
というか……もう既にしている。
まさに、現在進行形だ。
けれどそんなことよりも、私は『思わない』という夫の台詞に身を強張らせてしまった。
夫にとっては、昨夜の出来事はあくまでも『夫婦の営み』だったのだ。
そのことにショックを受けてしまう。
夫に非があるわけではない、あるわけではないと理解はあるものの、それでも心は酷く落ち込んだ。
それに──。
「……そんなに怒ること?」
「あのな、ただの仮定であってもそういうのはルール違反だろう」
ルール違反って?
「妻が夫に恋をしたらルール違反なの?」
まさか、『想いが重い』とでも言うのだろうか?
喉の奥が鈍く痺れた。
そうであるなら、あまりに悲しい。
「へ?夫って、何?俺っ?」
普段、冷静な夫にしては珍しく、素っ頓狂な声を上げた。
私はうっかりタイムスリップでもしていたのだろうか?
そんな訳ない。
明らかに目の前の夫は、学生ではない。
寝惚けたことを言っているのは夫の方だ。
何だか徐々に腹立たしくなってきた。
「私たち今は歴とした夫婦なのよ?私が恋をするのは、あなたの他に誰がいるっていうの?」
私は彼の胸元を指さした。
彼の隙を突いて施した所有印は、唯一無二の番の証。
それは今朝、寝コケている彼の腕の中で目覚めた私が、目の前にあったその場所に、こっそり仕掛けた悪戯だった。
「寝込みを襲う悪戯な行為だったけれど、誓ったそれに嘘はないもの」
非難する私に、夫は額を押えて天井を仰いだ。
「……ったく、焦らすなよ」
今の話の流れで焦りどころが何処にあったのか?
大抵のことは意思疎通できると自負していたというのに、どうやら矜持をくじかれた。
心を通わせるとは存外に難しいと知る。
「焦るって、どうして?」
「紀子は他に目移りしているのかって……」
「はぁ!?そんな訳な――」
声を荒げた私の唇に夫は指を添えた。
口を噤ませたのはその指先ではない。
私を見つめる夫が、酷く切なげな表情をしていたからだ。
何だか泣きそうにも見えて、私の胸までもが苦しくなってしまった。
「紀子はほんと……そういうところがブレないな」
先ほどのような呆れたそれでは無い。
少しばかり震えた声音は、敬意以外の何ものでもなく、優しいものだった。
「俺には勿体無い奥さんだよ」
最高の賛辞でもって、夫は私の額に口付けた。
触れるだけのどこまでも優しいキスは、忠誠を誓う騎士を思わせるそれ。
私は眩く微笑む夫を見つめていた。
「紀子、俺に恋をしてくれてありがとう」
そんな感謝をされる覚えは無い。
寧ろ、『私に恋をさせてくれる夫でありがとう』だ。
私は夫に恋をして欲しいと、ただ欲深いばかりだというのに、夫はまるで分かっていない。私はそんな神聖なものじゃない。
「……私があなたを落とすにはどうしたらいいの?」
つい、本人を前にして、泣き言を口にしていた。
夫は戸惑った様子で、唖然としている。
「勝負下着は何ら意味を成さなかったの」
出来の悪い生徒は、降参を示して答えを求めた。
効果の無かった哀れな下着を思い遣る。
「せっかく可愛い下着だったのに……」
つい、八つ当たりのように自白してしまった。
夫は目を瞠り、そして吹き零した。
「ぷっ、くふふっ。それは悪かった。でも、もう十分落ちているよ?まさか、分からなかったのか?」
確かに昨夜は激しく抱かれた。
でも、それが恋をしている証にならないことなど、私はとっくに知っている。
「だって、あなたにとっては『夫婦の営み』だったのでしょう?」
時を経て、酸いも甘いも嚙み分ける私たちに、あの頃のような純真さはない。
「今だって平然としているじゃない」
私は悔しさに目をそらした。
「平然?そう見えるのか?」
夫は自身の胸に私の手を添わせる。
早鐘を打つ心音は、私よりも随分と早い。
「これでも自制をするのが大変なんだぞ」
逆上せそうだと、夫は立ち上がる。
「責任、取ってくれるんだろう?可愛い、俺の奥さん」
否が応でもその言葉が嘘ではないと示されている。
目のやり場に困って、私は挑むように夫を見上げていた。
「の、望むところだもの」
何がどうしてこうなった?
心の在処を確認するだけの筈が、一から確かめ合うことになるとは……。
思いの他早くに訪れたリベンジの機会に、私が右往左往したことは言うまでもない。
最初のコメントを投稿しよう!