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隠し事の勧め
若気の至りだと甘えていられた二十代は、あれよと言う間もなく過ぎ去っていた。
身を引き締めて迎えた筈の三十代とは、そうした若手を育てることも仕事の内に入って来る。
「だぁあぁ、苛々する」
ダァンッ!
鬱憤を晴らすかのように、一息に飲み干したビールジョッキを卓上に叩きつけたのは、入社三年目の若手社員、国立だった。
役職は営業一課主任補佐、つまりは主任である俺の部下になる。
――おいおい、仮にも上司の前でブチ切れるなよ……。
俺たちは医療機器専用商社で働く営業マン、つまり様々なメーカーの医療機器を医療機関に販売することが仕事である。
医療機器メーカーの営業職と何が違うかと問われたなら、彼らは自社製品の販売特化型。一方で、主種様々なメーカー製品を取り扱う商社は、医療機関とメーカーの仲介業務を請け負っている。
医療機関の言わば、御用聞きのようなものだ。
医療機関はメーカー側の顔色を窺うことなく、従来製品を取りやめ他社製品に替えたり、取り扱っている製品が多い為にケースバイケースで事細かに注文できるところが、商社を通す利点である。
メーカーは商社に自社製品を推してもらえるように、商社の営業職とは良好な関係を築くことが望ましいのだが……。
「あの野郎、俺のことをいつもいつも見下した言い方しやがって……」
――とまぁ、そういう訳である。
各種機器に対して幅広い知識を有している商社に対して、メーカー側は専門特化型。深い知識を有している分、そうした人間性を見せてくる輩に当たることも、ままある話だった。
「まぁ、落ち着けよ。見下されるのは当然と端から思っとけよ。それよりもどちらがそれをクライアントに提供できるかが大事なんだからな」
医療機関は兎にも角にも価格重視。
A社の製品を購入すると決めたのなら、直接メーカーと取引すれば仲介料を支払わなくても良い分、メーカーに取引を持ち掛けることも、ままある話だった。
それが専用商社の弱味である。
他社製品で引けを取らない製品があるのならば、それを引き合いに価格交渉を両社に持ち掛けるなど、手間のかかる営業コンサルティングまでを請け負うことで、専用商社は凌ぎを削っている。
無茶ぶりなコストダウンを顧客が更に要望するならば、海外から部品を取り寄せてでもメーカーと交渉するなんてこともしていかなければならない。
そうした不随価値を示していかなければ、インターネットで簡単に情報を得られる現代社会において、商社に勝ち目はないのだ。
「メーカーに直接営業されたんじゃ、専門性に欠けている分、俺たちはどう考えても不利じゃないっすか」
確約まで漕ぎ付けておいて、契約直前でメーカー側に鞍替えされたのだ。
「そう投げやりになるなよ。俺たちの仕事は、メーカーのように見積もり取って終わりって訳じゃない。今回は逃したかもしれないが、逃した理由を突き詰めろよ。なぜ、クライアントはお前を通さずに直接メーカーを通したのか」
国立は鼻に皴を寄せる。
「そりゃ、その方が早いっすからね。ちょっと考えりゃ分かりますよ」
仲介料を削ればさらにコストダウンを図れると踏むことは当然だと、国立は唸った。
「なら、『直接価格交渉した方が早い』と思わせる何かが、お前自身にあったってことだ。長い目で見れば任せておいた方が得だと思わせる営業では無かった。敗因を探れないと、今後も負けてばっかりになるぞ」
営業はゴリ押せばいいというものでもなく、あくまでも信頼性に大きく左右される。
得だとまで思わせられなくとも、任せて安心だと信頼されていれば、顧客はわざわざ業務外の面倒な仕事をしようとは思わなかっただろう。
「俺は主任のように、話術も頭もないっすからね……英語もそこそこで外資系にだって弱いし……」
早くも酔いが回ってきているのか、ぶつくさ、ぶつくさと、ないものねだりをし始める始末。
「お前なぁ、俺が天才か何かに見えているのか?必死に喰らい付いてんのは俺も、多分、お前からクライアント取って行ったメーカーの営業さんだって一緒だっての」
「……」
国立は不貞腐れた顔のまま、押し黙ってしまった。
そして、ポツリと零す。
「でも、最後に価格を言われたら、もう勝てないっすよ……」
幾つかの他社製品にも当たり、顧客の要望通りの製品をようやくにして掲示し、掴みかけた新規口だった。
それを最後の最後で掻っ攫われてしまったのだ。
ささくれた心の国立に向かって、俺は小さく嘆息した。
「俺もお前くらいの時は同じようなこと思っていたよ。それに、営業なんて運みたいなもんだなって」
頑張ったら、頑張った分だけ必ず成績が伸びるものでもない。
「でも、気付いたんだ。違うかもしれないなって」
どうやら話を聞くに気なったようで、国立は顔を上げた。
「国立は初めて車を買った日のことって、覚えているか?」
「車っすか?ええ、俺は中古で探したミニカーです。ルパンが乗ってるようなやつに憧れて……結構がんばって探したんです」
唐突な話にも、どうやら国立は車好きだったようで乗って来た。
「俺の場合は、そう言ったこだわりがあんまりなくて、幾つかディーラーを回った末に、そこの営業さんの人柄が決め手だったんだ」
懐かしい昔を思い出して、目を細めた。
――今もあの人は、車を売っているのだろうか?
「へぇ、そんなに良い営業だったんですか?」
俺は苦笑いしながら首を横に振った。
「多分、まったくだ」
全然、なってない人だった。
「契約の時だって、桁を一つ間違えていてさ、ゼロが一つ足りないですよ?なんて、笑ったもんだったよ」
今の俺と同じくらいの年齢の男だったと、俺は紀子を連れて車を見に行ったことを思い返していた。
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