隠し事の勧め

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 そう、それは結婚したばかりの頃だ。  俺の実家からほど近く、駅からも近い賃貸2DKのアパートを借りて、俺たちは新婚生活をスタートさせていた。  これまでは親の車を借りて乗り回していたのだが、流石にいつまでもそういう訳にもいかないと、新車を購入するつもりでいくつか店を回っていたのだ。  夕餉を食べながら、俺は紀子に訊ねた。 「今日、幾つか見て回ったけれど、気に入った車はあったかい?」 車種にもメーカーにも特に希望は無く、念頭にあるのは価格だけだった。 「ううん、甲乙付け難いわね。私が運転するなら、どれに乗っても冷や冷やしそうよ」 営業で車に乗り慣れている俺とは違い、紀子は実家でたまに親父さんの車を運転するくらいだったから、ペーパードライバーに近かったのだ。 「ふふっ、最初はあなたがぶつけておいてくれる?」 紀子は冗談めかして笑った。   「土日は暫く特訓だな」 「はい、よろしくお願いします。教官」 敬礼をして見せる紀子は可愛いが、助手席に乗るのは気が退ける。 「車はそんな感じで眺めていただけだったんだけど、あの営業さんはいい人だったわね」 「ああ、あの人だろう?」 「「重本さん」」 俺たちは同時にその名を口にした。 顔を見合わせ、つい含み笑いを漏らした。 「なぁんか、頼りないのにさ。憎めない人なんだよな」 「ん。何だか、私たちが買ってあげなきゃって、応援したくなったもの」    重本さんは、ピシッとした隙の無いスーツを着込んだバリバリの営業マンらしい営業マンでは無かった。 「多分独身だと思っていたのに、薬指に指輪を填められていたから驚いたの」 「どうして独身?」 紀子は苦笑する。 「背中が皺くちゃだったの」 本来ならば、営業マンにとって戦闘服である筈のスーツを、くたびれたまま着込んでいるのは独身の証だと紀子は言った。 ――なるほど……。 俺のスーツやワイシャツは決まって紀子がアイロンを当ててくれていた。 さぞや面倒なことだろうと、頭が下がる。 紀子はスッと目を細めて、人差し指を口に当てた。 「妻の知恵よ。虫除けなの」――この人は既婚者よ、近づかないでね。 ――な、なるほど……。 やましいことなど無いが、見張られている心地でごくりと喉を震わせた。 これからは違った意味で、身が引き締まりそうだ。 「だから、お子さんがいらっしゃるのかな?って」 そう言えば、紀子は重本さんに訊ねていた。 確か、オプションでチャイルドシートが付いて来ると言われた時だった。 産まれたばかりで、奥さんは実家に帰っているのだと、重本さんは少しばかり垂れ気味の目尻をさらに下げていたことを思い出した。  そう思い返せば、車のことよりも家庭のことの方が饒舌だった。  彼は、入社間もないという風体でもないにもかかわらず、あたふたと何処か心許ない営業マンだったのだ。    車種に関しては少しも流暢な説明ではなく、俺たちの質問に対しても、その都度に調べては「この車は――みたいですね」と、新たな発見をしたように口を添えていた。 『あ、これ、内装は布張りと革張りで選べるみたいです』 重本さんは、パンフレットに指をさして声を潜めた。 言葉の緩急の付け具合が妙なのか絶妙なのか、どうでも良いことにまで、つい真剣に耳を傾けさせられてしまった。 「しかもお値段据え置き!?」 まるで自身が客であるかのように、素っ頓狂な声を上げて独り驚き、眉根を寄せる。 『ならどう考えても革張りだと思いませんか?』 真剣にサンプルの布地を確かめているのは、客の方では無く営業マンの方。 「汚しても吹けば済むという話です」 「何で値段が同じなんだろう?ああ、合成樹脂(レザー)なら、そんなものですかね」 終始そんな調子で、節々でお客の目線と同じになって車を買う、いや違う、売る人だった。 「あまりに営業っ気のない人だから、こちらも身構えずに済んで良かったわ」 まるでリビングで話を聞いているようだったと、紀子は笑っていた。 俺も同意に頷いていた。 「なら、あの人から買うか?」 一緒になって見ていた車種はSUV車だった。  車体が高い分見通しが良く、ミニバンよりも小ぶりで、紀子にも運転しやすそうだった。  ターボ搭載だったから、もし子供が生まれたらキャンプやハイキングにもいいかもしれないと、CMに流れるような光景を俺は妄想していたのだ。 「ええ。あなたがいいなら私に異論は無いわよ」 なら、来週にでももう一度見て――。 そう続けようとした言葉は俺の喉元で替えられた。 チラリと見た時計の針は十九時を過ぎたところ。 営業時刻は二十時まで。 「今日の今日で契約すると言ったら、重本さんはびっくりするだろうね」 「ご迷惑でなければ、家に来てもらえるかしらね?」 うちにご招待をしたくなるほど気安さを抱く営業マンなど、早々いる者ではないだろう。 「ふふっ。これも何かの良いご縁ね」 紀子の笑みが決まりだった。
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