隠し事の勧め

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 三十代とは働き盛りだと言うけれど、近頃は残業が続き通しで流石に疲れていた。    各医療機関で新しい製品が導入された時期というのは、大抵が被っているもので、部品交換だったり、修理だったり、買い替えだったりで、てんやわんやの大忙しというのは大波のように一定の周期で来るものだった。 ――周期があるなら手の打ちようがあるってのに……。  在庫管理に新しいシステムを導入しようとエンジニアに掛け合っていたのだが、上が首を縦に振らなかったことで、大波に溺れるような仕事をする羽目になっているのだ。  とは言え、人の命が掛かっている医療業界に待ったは無い。  そんな緊急納品が立て込んでいる中、オペ貸し出しと言って、手術で使う医療器具やインプラント材料などを丸っと貸し出し、使った分だけ請求するという形態――これは引き渡し、引き上げ業務に慎重なチェックが必要で、現場に不慣れな若手にミスが起こりがちな納品業務であるのだが、案の定にそれが起きて、俺はその対応にメーカーに掛け合って来たところだった。 ――今回のように使用、未使用問題なら、まだマシ。紛失問題が一番厄介なことになる。 仲介業者は医療機関とメーカーの板挟みで、こうした場合に非常に弱い立場になってくる。 ――起こりがちと分かっていることなら、三方でマニュアルを確立するべきなのに、こちらも現行のまま手つかずなんだよな……。 溜息を吐く間もなく、携帯が鳴る。  担当地区の病院からだった。 「い、今からですか?分かりました。すぐに向かいます」  新製品導入による立会いオペの要請だった。  新しい機器を入れると、取り扱いに不慣れな病院側から立ち合いの要請を受けることが往々にしてある。  医師と懇意になっておける良い機会なのだが、暗黙の了解で無償にされてしまうことが多く、何よりも膨大な時間を喰ってしまう。     機器の取り扱いの説明には念入りに時間を掛けていたのだが、土壇場で分からなくなったら困るからと立ち合いを求められたのだ。 「学会に向かう時間が無いな……」  医療業界は学会と呼ばれる講演が定期的にあり、これに参加することは見識を深められるだけでなく、医療関係者にディーラーとして顔を売るチャンスの場でもある。これを疎かにすると日々の営業活動に差し障りが出てきて、ある日突然に、他社に顧客を取られるといったことも起こりかねないのだ。  昼も喰いっぱぐれたまま、陽の暮れた時間になって、俺はようやく社内に戻った。  どんなに忙しくとも、脳内で仕事のプロフェッショナルたちを紹介する某番組の音楽が流れている内はいいのだ。  まさにオン状態はゾーン。  稼ぎ時だ、祭りだという勢いで、チーム一丸となって気合が乗る。  うちは営業部が一課と二課で競合関係にあるのだが、果たしてどちらに軍配が上がるのかと、年度末のこの時期は全力で盛り上がることが恒例であった。  しかしながら、今年度ばかりは様子が違う。  大幅に一課は出遅れていた。  システム導入云々で揉めていたことが敗因であった。  チーム一丸どころか、亀裂でいつ爆発してもよい雰囲気が漂っている。 ――クソッたれ……。  揉めたおおもとの責任は俺にあった。導入の話を上層部に振ったのは俺だからだ。  名誉挽回と、寝る間を惜しむ勢いで追い上げていたのだが、そんな焦りが悪循環を招いているのか、此処へ来てまた問題が発生したようだった。 「す、すいません。わ、私の責任です……」 真っ青になって事務処理を担当する女性社員が駆け込んで来たのは、十九時を過ぎていた。  発注をし忘れていた案件があったと、俺の上司にひたすらに頭を下げに来たのだ。  もうメーカーの工場に連絡は繋がらないだろうと、課長代理(俺の上司)はあっさりと打ち切る発言をした。 「立原、すまないが先方に謝罪を頼む」 素直には頷けなかった。 俺の担当ではないというのが理由ではない。 「そんな(ぬる)い仕事で凌げるほど、この業界は甘くありませんよ」 一度崩れた信頼を取り戻すのは、並大抵のことではないと、俺は怒りに似た感情を覚えて、気付けば上司に楯突いていた。 「代番がある筈だからから、一桁違いに掛けてみてくれないか」 事務員の女性社員に促した。 「俺は他のディーラーに当たって、預託在庫を回してもらえないか確認してみるから」 「お、俺も当たります!」 フットワークの良い国立ら他の若手は、名乗りを上げて直ぐに動いてくれた。    方々の倉庫を走って、何とか搔き集めて事なきを得た時は、ようやくチームが一丸となった気がした。  事務員の女性は泣いて皆に頭を下げていたが、俺は少しばかり神の啓示ってやつを感じるほど気持ちが高揚し、感謝の念すら抱いていた。  そう――。  手書きの発注申請書を目にするまでは……。  事務員の女性社員が言うには、ファイル下に紛れ込んでいて見落としていたのだという。 ――このクソ忙しい時に……。  そうした人為的ミスを回避するために、随分前から書面での遣り取りは廃止すると決められた筈だったのだ。  聞けば上層部には、まだそうしたアナログ層がいるとのことだった。 「目を瞑って来た私もいけないんです。申し訳ありませんでした」 上司に言われて、首を横に振る訳にはいかなかったのだろう。 彼女の気持ちは分からないでも無かった。 そう、こんな小さなことさえ変えられないもどかしさ。 ――本当に、分からないのだろうか……? 落胆以外の何ものでも無かった。 「……」  叫び出したいほどの苛々。  おそらく、あの時の国立の気持ちを、俺は正しく理解できたのだろう。
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