隠し事の勧め

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 終電に辛うじて乗り込み、兎にも角にも俺は安堵の息を吐いていた。 「マジで疲れた……」  戦闘モードは完全にショートする。  どっと疲れが押し寄せ、散々に歩き回って冷え固まった足は、まるで棒っ切れのように感覚が無かった。  うっつら、うっつらと頭を傾がせ、停車した電車のアナウンスで我に返った。 ――ど、何処だ此処!? 慌てて駅名を見ようと振り返るも遅かった。 過ぎ去る駅は俺の降りる筈だった最寄り駅。 「ああ、くそっ……」 一駅分を歩かねばならない苦行を思って、俺は額を押えた。 揺れるつり革を、掌の隙間から呆然と眺めるしかない。 『あなた、頑張って』 近頃耳にしていない声が遠く聞こえた。 紀子がこの台詞を言わないようになれば、それは不味いシグナル。  こんなことは前にもあったと思い出す。  紀子はまだ学生で、俺は入社二年目の時だった。 『新婚なんて一番いい時』などと、浮かれていられる状況では無かった。  慣れない仕事に悪戦苦闘するだけでなく、結婚したばかりで何かと気負い過ぎていたのだ。 『学生の内から!?』 『早くから結婚なんてするからだよ』 『何をそんなに焦ってたんだよ?』 そんな諸々の雑音をねじ伏せたかった。 紀子の為にも、俺自身の為にも、地に足を付けたいと、そんな想いでがむしゃらだった。 ――今、振り返っても一番不味い状態だったよな……多分。 本当に、紀子には苦労ばかり掛けている夫だと省みる。 「俺って、実のところ、あんまり成長してないのな……」 口にして、酷く凹んだ。    あの頃、職場でも家庭でも険しい顔ばかりしている俺に、ある日、紀子は訴えて来た。 「これ以上に無いほどに頑張っている人を、私は応援なんて出来ないわ」 俺の手を取って、紀子はそう切り出したのだ。 俺はそんな紀子の手を振り払っていた。 「しなくていいよ、学生の紀子にはどうせ分からないだろうしね」 八つ当たりで、そんな冷たい言葉が口を吐いてしまう。 紀子も就職活動で大変な思いをしていると知っていながら、それでも自身を批判された心地で、思い遣りに欠けた、棘のある言葉しか出てこなかったのだ。 「頑張ってと言われて、あなたは力が湧くの?」 俺は眉根を寄せて、紀子を見下ろしていた。 「私だったら、泣きたくなるわ。頑張ってるものって、何を見てるの?って、きっと悲しくなる」 学生の内から結婚しているという事実が、ネックになっているのは紀子も同じであった。 女性ならば尚更なのかもしれない。 ――身持ちが軽い女だと思われそうだもんな……。 そうした偏見が企業側の人事に無いとは言い切れなかった。 「苦しい時、苦しいことをするのは、本当に骨がいることよ。だから、たまには、ズルをしていい。怠けていい。少しだけ、自分を許してあげる気にはなれない?」 泣きそうに顔を歪め、紀子は俺の口にチョコレートを放り込んだ。 チョコは甘い筈なのに、この日ばかりのチョコは、何だか酷く苦かった。 「真司さん、今日は何の日でしょうか?」 今日――はっとする。 十月二十日は紀子の誕生日だった。 「……ごめん」 すっかり俺は忘れていた。 「ブッ、ブゥー。そこは『おめでとう』と、言うところです」 紀子は茶化して頬を膨らませた。 「おめでとう……」 「ありがとう。真司さんを丸ごといただくので、ちゃんと抱き締めさせてください」 振り払われたばかりのその手で、紀子は俺を抱き締めてくれた。 「分からなくても、ちゃんと分かりたいと思っています。だから、独りで勝手な所に行ってしまわないでね」 こんなに温かいものを、俺は振り払っていたのだと知る。 「無理を押し通している人に、行ってらっしゃいも、頑張れも、私は言わないわよ」 紀子は俺の懐で頬ずりをして、まるで俺自身を味わっているかのようだった。 「少々ズルをしてでも帰ってくればいいのよ」  必ず無事に帰って来てと、俺には聞こえていた。
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