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鬱、あるいは過労死への道がうっすらと覗き始めたと、紀子は間接的に伝えてくれているのだ。
――ん、分かっているよ。ちゃんと、戻るから心配するな。
今朝の紀子の様子を思い出す。
何か言いたげに、それでも口を噤んでくれた。
「気を付けて帰って来てね」
『行ってらっしゃい』の言葉の代わりに、ギュッといつもより気持ち長めの送り出しだった。
今日も遅くなることは分かっていたから、『早く帰るから』と、言ってやれないことが歯がゆく、『心配するな』と、言っても仕方がないことは俺も言わなかった。
掛けられる言葉もなく、ただそのぬくもりに頷いていた。
小さく、浅く、俺は息を吐く。
深く吐くことさえ億劫だったのだ。
――ごめん、紀子。更に遅くなる。
それに心配なのは紀子の方だった。
そうというのも紀子は妊娠しているからだ。
八ヶ月目に入り、後二か月ほどで長男が生まれる筈である。
待望の――というには素直に喜んでいいのか複雑で、すっかり諦めた頃になって、不意に現れたのだ。
そうと告げられたのは、接待で飲んで帰った夜だった。
疲れていたことに加えて、酒に痺れた頭では、紀子の言う言葉がすんなり入ってこなかった。
「……本当に俺の子なのか?」
思い起こしたのは昔見たことのあるTV番組。
奇想天外特集だとかで『宇宙人の子を身籠った妻』というのを、まことしやかに取り上げたものだった。
暴言で使ったつもりなどなかったのだ。
そんなことにも気づかないまま、俺は暫く呆然としていたと思う。
紀子に非難されるまで、己の失言に気づきもしていなかった。
次いで、紀子の異変に気付く。
突然に蹲り、過呼吸を起こして紀子は倒れてしまったのだ。
『の、紀子っ!?』
これまでの人生で、あんなに肝を冷やしたことは無い。
俺は慌てて看護士である母を呼び出した。
三年前に父が他界したのを機に、母は持ち家を売り払って、俺たちと同じマンションに越してきていたのだ。
遅い時刻だろうとスッ飛んできてくれた母は、髪にカーラーを付けたままの寝間着姿だった。
紀子の様子を見るや適切に処置を施し、血圧や心拍数などのバイタルサインを見て取り「大丈夫だから、今は動かさないように」と、俺に厳命した。
馬鹿息子を殴り飛ばしたい衝動を辛うじて堪えているように、母は俺に告げた。
『母親になった女は強いけれど、甘えてばかりいたら全部一瞬で失ってしまうわよ。腹を括って早く父親になることね』
まさに全部一瞬で失う心地を味わっていた俺は、確と頷いた。
――頷いたもののこの体たらく……。
甘やかしてやることも出来ないもどかしさと、不甲斐無さで頭痛がして来た。
眉間を揉みながら、俺は次の停車駅で電車を後にした。
「母親か……」
母に残る疑惑が頭を過る。
亡き俺の父はAB型、母もAB型、俺はA型、そして俺の弟はB型。
俺の妻、紀子はO型、ならば産まれてくる子はA型でなければおかしい。
――果たして、本当にA型の子が産まれてくるだろうか?
そんな疑惑を抱くのは、勿論、紀子の不貞を疑っているからではない。
断じて違う。
『あいつに限って――』とは、誰もが俗に使う言葉かもしれないが、紀子に限ってそれは無い。
俺が如何に愚かな男で、紀子の夫としてふさわしくなかろうが、紀子は俺を見限らない。
うまく言えないが、俺はおそらく紀子の核になる部分に触れている。
もしも、紀子が俺を切り離すならば、それはもう紀子ではないだろうと思われた。
俺が不貞を疑っているのは俺の母親だった。
弟の妻、由紀子さんも紀子と同じでO型だ。ならば産まれてくる子はB型の筈。
なのに産まれた弟の息子はO型だったのだ。
弟の息子は弟似だと言うことは一目瞭然、あれで親子では無いなどと誰もが思わない。
俺たち兄弟は母親似だった。
あるいは父の面影の特徴が無いからこそ、母親に似た所ばかりを意識的に見ているのかもしれない。
「はたして弟自身はこのことに気付いているのだろうか?」
母が口を噤んでいることを安易に口にはできないと、俺も気付かないふりをしている。
俺たち兄弟の父は、あの父親で間違いはなく、今更に父親が誰であるかなど知ったところでどうでも良いのだが、それでも、魚の骨が喉の奥に刺さっているかのように異物感を覚えていることは確かだったのだ。
「……紀子ならばどう言うのだろうか?」
あの母を慕ってくれている紀子にも、実のところ話せてはいなかった。
紀子の実の母親のことを思えば尚更で、不貞を犯すような母だと知れば、さぞやショックを受けるだろうとは容易に想像がついた。
「『腹を括って父親に――』か。親父も括ってくれたのか?」
もっと話しておけば良かったと、それこそ今更なことを、俺は見上げた星々に向かって呟いていた。
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