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そんな父に転機が訪れたのは、俺が大学へ進学したばかりの時だった。
「何、父さん転職するの?」
天職では無かったのだろうかと、俺は首を傾げた。
「ええぇ、大丈夫なの?我が家の家計とか、俺の小遣いにも響いてくるなら、死活問題だよ」
目を剥いたのは弟だ。
「家計はともかく、お前の小遣いなんて引き合いに出してくるなよ」
俺は呆れるも、弟は口を尖らせた。
「それに俺、塾へ行かないとマジでヤバいレベルかもしれないんだけど!?」
弟は俺に向かって、訴える。
「ははっ。よし、家庭教師代はお前のその小遣いからせしめるか」
「何でだよっ!」
怒る弟をひと睨みで黙らせたのは母だ。
ほんの冗談のつもりが、真剣な顔で俺に『そうして頂戴ね』と、念を押してきた。
幸いにして母がバリバリのキャリアウーマンである我が家は、経済的には随分と豊かな方で、そうした心配は薄かったのだ。
「お前たちにもそうした危惧は請け合って貰うが、俺は今の会社から抜けることにした」
父は俺たちに向かって、決定事項を伝える。
しかしながら、父は天職から足を洗う訳では無かった。
フリーランスのメカニカルエンジニアに独立すると宣言したのだ。
「それは随分と……思い切ったんじゃないの?」
俺は眉根を寄せた。
「そうだな……。やっぱり、お前もそう思うか?」
少し心許なげに、父は苦く笑った。
「――うん」
素直に正直な気持ちで頷いた。
父の腕を信用していない訳ではない。
実際に見てきたわけではないが、ああも仕事人間の父が、野球のようにへなちょこな筈はないと確信もあった。
それでも――。
「顧客を取ってきたり、そういうのしたことなんて無いんじゃないの?」
父は職人気質の頑固親父というタイプではない。
どちらかと言えば、人当たりが良く、押しに弱いタイプに思えた。
自営業であれば、これまで営業さん任せであったことも積極的にしていかねばならない。
「そうだな……。でも、俺でもやれば何とかならんかな?」
父は頭を掻いて、苦笑いを零した。
「……」
「あら、取って喰われる訳でも無し、何とかなるわよ。やってみれば案外にご近所づきあいと別に何も変わらないわよ」
あっけらかんと母は話を区切って、思い立ったように立ち上がった。
「そう、そう、リンゴをいただいていたの」
そのご近所づきあいで、リンゴを貰ったことを思い出したようだ。
何ら動揺することなく、普段通りのままに母は台所に向かった。
我関せずと言った具合だ。
シリアスな話だった筈が、そんな母にコケそうなほど空気が緩む。
我に返った弟もその後を追った。
「俺はコンポートが喰いたい」
「面倒な子ねぇ、なら自分で作りなさい。砂糖まぶしてラップしたら、レンジでチンするだけだから」
「何だよ、そんくらいなら、可愛い息子の為にやってよお母様」
台所で、やいのやいの言い合う二人を尻目に、俺も肩を竦めた。
「まぁ、そういうものかもね」
ご近所づきあいもそうしてこなかった父だが、本人がやると言っているのなら、何とかする気なのだろうと、俺も腰を上げ掛けた。
「だから、その――、手伝ってくれないか?」
父は俺にいつになく真剣な、否、厳しい目を向けてきた。
「……マジで?」
「学業に障りがない程度で良い。勿論、バイト代も出す。否、弾む」
弾む金が何処にあるのだと言いたかったが、バイトを雇う金などそれこそないだろう。
否やは言えなかった。
――これはマジで死活問題だな……。
俺は父のサポートに回って、父の起業を手伝うことになった。
至らないのは父も、俺も同じだ。
右往左往しながら俺は部品の受注や顧客管理、加えて経理の仕方を学ぶために税務関係も勉強する。
身内ごとだからとにかく、必死だった。
そして、それら事務処理になれる頃には、営業の仕事が割と好きだと自分の特性を知ったのだ。
父は学生である俺のサポートをしながらエンジニアとしての腕を発揮した。
俺なんかでも足しになり、何とかなったのは、単に父の腕が本物だったからだろう。
いつだったか、仕事に慣れてきた頃に訊ねてみたことがあった。
「どうしてわざわざ独立したの?」
給料面では文句は無かった筈だ。
年収は良かったし、何より安定していた。
「――顧客の為にならないものを作ることに嫌気が差したんだ」
コストダウンばかりに囚われ、質を落とさねばならない仕事に虚しさを覚えたのだという。
「俺は根っからの職人だから、性に合わなかった」
確かに日本の電化製品が、この国の誇りとされてきた時代は終わったと俺も感じていた。安価な中国製品に市場を奪われ、その技術にも遜色は感じられない。
「安っぽい仕事して、楽しいか?面白くないなら、廃れて終わりだろうな」
「今は楽しいの?」
「ああ、出来の良い息子を持てて俺は最高の気分だよ」
あの時の父の顔は、今でも俺の心に遺影のように残っている。
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