隠し事の勧め

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 男と女の情事など分かったものじゃないとは言うが、やはりどう考えても解せない。 ――母が父を裏切るだろうか?  深く眉間にしわを寄せて考え込んでいた所為で、紀子の声が耳に届いていなかった。  はっとして顔を上げる。  紀子が心配気に此方を見つめていた。 「新年度を迎えて、ひと月経つけどまだ落ち着かない?」 ――莫迦か……これ以上、紀子に余計な気を回させてどうする? 紀子は臨月を迎えて、いよいよというところまで差し迫っていた。 今はまだ言えない。 何でもないよと、俺は紀子の手を取った。 「新しい顔ぶれになっただけで、やることはさして変わらないからそうでもないよ」 新年度を迎え、人事は刷新されたが、俺は営業一課から二課に移っただけだった。  この時期、刷新するのは何処も同じだから、一から顔を売りに挨拶回りが増えるが、納品業務はひと段落して、今では随分と落ち着きを取り戻していた。 「随分と難しい顔をしているから、何かあったのかと思ったわ」 重そうな腹を抱えて、紀子は俺の隣に腰を落ち着けた。 「いや、俺がいない間に陣痛が来たらどうしようかと考え込んでいただけだよ」 「大丈夫よぉ。お義母様も近くに居てくれているしね。それに何度もシミュレートしているもの」 陣痛が来たらタクシーに乗って、病院に行くだけだと紀子は言った。 「触らせて……」 俺は紀子の腹に手を添えた。 「今は眠っているんじゃないかしら?さっきまで、すっごく燥いで蹴っていたの」 お風呂に入っている時なんかは、足形が見えることもあるのだと、紀子は嬉しそうに告げる。 「――って言ったって、俺には見せてくれないくせに」 腹が目立つようになってからは、一緒に風呂に入ることも無くなった。 「私はあなたの前では生涯乙女でありたいの」 紀子は頬を赤らめ、口を尖らせる。 だから立ち合い出産も絶対に御免だと紀子は言い切っていた。 「ふぅん、別に今更どんなでも俺は、紀子は紀子だと思うけど?」 妊婦の身体をそうも恥じ入らなくて良いと思うのに、紀子は盛大に目を眇めた。 「そのお気持ちは嬉しいけれど、なりふり構っていられない私をあなたに曝す気はありません!」 やはり乙女心とはまるで分からない。 どうも気に障る言い方だったようだ。 「名画の裸婦を見てあなたはそそる?あれらは女性を神聖視して描かれているのだけれど、私は生身の女だもの。いつだってあなたを誘惑できる女でありたいの!」 紀子は憤懣やるかたなしと言った風情だが、俺が乙女心を理解するには十分な説明だった。 「なるほどね……」 裸婦にそそられない理由も、裸婦がふくよかに描かれている理由にも合点がいく。 「私の気持ちはそうだけど……。真司さんは出来ることなら、立ち合い出産をしたいと思っているの?」 紀子に問われ、どう答えるべきが正解なのか俺は悩んだ。 「……」  したくないと言えば、思いやりに欠ける夫だと捉えられかねないし、かといってしたいと言えば、紀子は自分の我を引っ込めてくるだろう。 ――俺はしたいのだろうか? 一生にそうないチャンスには違いない。 それを棒に振るか否かがこの答えに掛かっている。  俺よりも先だって、立ち合い出産に臨んだ弟は、何処かしら誇らしげで、そして甚く感動したと言っていた。 そして、奥さんと子供を絶対に大事にすると、固く誓ったとも……。 「俺は――」 正解が分からないまま、正直に本心を口にする。 「心配だからね、その時は傍にいて見守っていたいとは思っているよ。でも、興味本位に立ち会いたいかと問われたなら、答えはNOだな。正直に言って怖い」 たとえエイリアンで無かろうと、その瞬間を直視出来る自信は無かった。 「ん、同じよ。私も見て欲しくないの」 どうやら正解を拾えたようだ。 「俺が傍にいなくても平気?」 今度は俺の方が答え難い質問をしてみた。 「平気よ。あなたが何処にいたってちゃんと傍に感じているもの。きっと、この子も。ね?」 いとも容易く満点の答えを紀子は口にする。 優しい眼差しを向けて、紀子は自身の腹を撫でていた。 「ん、やっぱり俺は君には勝てないな……」 紀子が奥さんで心底良かったと思う。 「え?」 キョトンと首を傾げる紀子に、何でも無いと首を振る。 「そこにいると、ちゃんと分かっているならいいんだ」 紀子の手に手を重ね、俺は心待ちにしていることを伝えていた。
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