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若かりし頃の母に、あるいは父と母の間に何があったのか、真実を知りたいような知りたくないような、俺は俺自身の気持ちも分からないでいた。
そして、もしも俺と紀子の子供がA型で無かったのならば、その事実を俺はどう受け止めることになるのだろうか?
真実に目を瞑ったままの不透明さで、大事なものを取り零さずにいられる度量が、果たして俺にあるだろうか?
そんな複雑な心境を抱えながらも、その日は訪れた。
淡い紫色の夕暮れ時、夫婦歴十年の俺たちに待望の第一子、長男が誕生した。
「ははっ……ありがとう」
俺たち夫婦を選んでくれた我が子に感謝の念が絶えない。
小さな、小さな命はうっすらと目を開け、いっちょ前に小さな欠伸をして、また目を閉じた。
腹が減っているのか、ちうちうと何やら口元を動かし、少しばかりきつく目を閉じたかと思えば、今度はにへらとうっすら笑った。
一つ一つの動作に目が離せない。
触れるのも怖くて触れられずにいる俺は、赤ん坊に釘付けにされていた。
――俺の子だ。俺と紀子の子。
実感が湧かない?
否、俺は一目見て、この子の父親は俺なのだと、寧ろ主張したくて堪らなかった。
病室のノック音に、扉に目を向けると同時に看護士が入って来た。
「お父さん、すいませんが、一度保育器に戻させていただきますね。お母さんが回復されるまでは、当院で責任をもってお世話をさせていただきます」
――お父さん……。
初めて呼ばれたそのフレーズに何だかむず痒さを覚えてしまう。
「は、はい。よろしくお願いします」
俺は慌てて場所を空け、鯱張って九十度にお辞儀をしていた。
――くれぐれも、くれぐれもよろしくお願いします。
これではまるで拝礼のようだが、つい気持ちが駄々洩れてしまっていた。
「ふふっ、はい、確かにお預かりいたしますね」
看護士は倣って、俺に向かってお辞儀する。
感じの良い担当者で良かったと、俺は胸を撫で下ろしていた。
「面会時間までは窓越しでならいつでも覗けますのでね」
看護士は手馴れたように赤ん坊を抱き上げ、てんぱっている俺に口元を緩めて病室を後にした。
初期陣痛開始は朝のことだった。
いつものように出社しようとネクタイを填めているところで、紀子が訴えてきたのだ。
「し、真司さん、病院に向かった方がい……いかも……」
遂に来たかと、俺も紀子も身構えていただけあって落ち着いていた。
「お、お仕事、急には休めないでしょう?」
タクシーで行くから心配は要らないと、紀子は笑みを覗かせたが、そんな訳にはいかない。
「そんな余計な気を回さなくていいから」
こんな時でさえ甘えて来ない紀子に少しばかり苛立ちを覚えながらも、仕事のことが先ず念頭に浮かんだのは紛れもない事実だった。
今日はオペ立ち合いが入っていたので、それを誰かに引き継いでもらわなければならなかった。けれど、海外から導入して間もないその新製品に対応できる人材は、うちでは限られていたのだ。
仕事の段取りに頭を悩ませながら病院に辿り着き、すぐに入院の手続きに回った。
「多分、すぐに産まれるってものではないから、此処は私に任せてあなたはあなたの仕事を優先させてね」
診察室の準備が出来るまでの間、待合室で待つ紀子は毅然としてそう告げた。
「いや……、とにかく会社に願い出てみるよ」
他の業務は何とかなるだろう、問題はオペ現場だった。
もしも、要請を断ることになれば、ただでさえピリピリした空気、万全の状態で挑みたいとしている彼らに水を注すことになる。
人の命を預かる彼らの前だからこそ、簡単に断りを入れることは出来なかった。
もし、他に手が回らなかったら――。
――だからって……、紀子を放って行くのか?
紀子が俺の手を取った。
きっと不安なのだろうと、俺はその手を強く握り返した。
『流石に此処でハグは恥ずかしいから……』
紀子はこそっと声を潜めて、へへっと、甘えた笑みを零した。
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
「え……?」
「え?って、まさか、さぼる気?ダメよ、ちゃんと働かないと」
紀子は茶化して笑みを含んだ。
「紀子……」
呆れたように、紀子は腰に手を当てた。
「あのね、私が一番不安だったのは病院に無事にたどり着くまでの道のりだったの。あなたが私を送り届けてくれたから、もう何にも心配なんてしていないわ。この子、私が不安に思っていると知って、きっと、あなたのいる時間帯を狙ってくれたのね」
腹を撫でて、紀子は笑みを深めた。
「此処までくれば私はもう『まな板の上の鯉』だもの。どうとでもなれって気持ちで挑むだけよ」
胸を叩いて、意気込みを見せる。
「もう此処にいたって、何もすることないんだから、ちゃんとお仕事に向かわないと叱られるわよ?」
「あ、ああ、……そうだな」
胸を詰まらせ、俺は立ち上がった。
「此処はお前たちに、任せる」
まるで俺の方が戦に出陣する武士にでもなった気持だった。
「はい、必ず吉報を届けます。待っていてね」
頼もしい妻に送り出され、俺はもう、振り返ることはしなかった。
信じて待つ――。
俺に出来る誠意はそれだったのだ。
それからおよそ十時間、格闘し続けた紀子は精根尽きて、今は眠っている。
「お疲れ様……」
面会時間が許されるまで、俺は何をするでもなくただその息遣いを聞いていた。
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