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母になった身体は痛みとの闘いだった。
私――立原紀子は全身筋肉痛の刑を味わっていた。
――便秘の時のようにはいかないのね……。
当たり前である。
産んでスッキリ、爽快!!!――とは、問屋が卸さない。
まるでフルマラソンを全力疾走でもしたかのよう。
裂けて感覚の無い下腹部には、もう怖くて意識を向けないことにした。
――ダメだ……。お、起き上がれそうにない……。
身体はガタガタだった。
他のお母さんたちは、新生児室まで授乳に向かったりしているというのに、この違いは何なのか?
それとも明日には良くなるの?
それともみんな、無理を押し通しているのだろうか?
「退院は一週間後です。それまでに赤ちゃんのお世話の仕方を学んでもらいますね」
看護士さんの言葉に頷きながら、何とか身の引き締まる思いで居を正そうと試みる。
「昨日の今日ですからね、無理に動こうとはしないでください。先ずはトイレまでを動けるようになれば万々歳。新生児室にまで辿り着ければ、儲けもの。それくらいの気構えでお願いします」
なるほど。
本当に有難いお言葉だった。
とてもじゃないが育児が出来るような状態ではないと、自身が悲鳴を上げていた。
――でも、我が子に会いに行かないお母さんで果たしていいものか……?
赤ちゃんは新生児室。
ほんの数十メートルの距離が果てしなく遠い。
しかもトイレとは逆方向。
「焦らなくても、赤ちゃんは待っていてくれます。大丈夫です。母親になったのだから、早く頑張らなければと、強迫観念を抱く必要はありません。今は体力の回復を優先させて、母親になった自分を讃えて、甘やかしてあげてください」
なるほど。
本当に、本当に有難いお言葉だった。
どうしたことか、ほろほろと涙までもが出て来る。
そんな私に看護士さんは苦笑いするしかない。
そりゃそうだ。
私自身、どうしてこうも琴線に触れて来るのかよく分からない。
シュ、シュッと、棚にあったティッシュを数枚、起き上がれない私の代わりに取っていただけた。
有難く鼻を噛む。
「産まれてくる赤ちゃんが人それぞれ違うように、お母さんの回復力も人それぞれに違います。それが普通です。周りを見て焦ったり、合わせたりする必要はありません。少しずつ歩んでも、早く歩んでも、行きつくところは同じです。確実に母親として成長しているものです」
「な、なる……ほど」
何とも情けないが、またぐすぐすと涙が溢れる。
――この看護士さんが担当者で本当に良かった……。
「退院まで、しっかりサポートをさせていただきますので、一週間のバカンスだと思って、よろしくお願いしますね」
看護士さんはポンポンと私の手の甲を宥めるように撫でて、退室して行った。
そして、看護士の代表格を張るお姑は、病室に足を運ぶことは無かった。
『疲れると思うから私は遠慮させていただくわね。なるようになるはずだから、気楽に過ごしていなさい。返信は無用よ』
代わりに、そんな伝言が携帯に入っていた。
素っ気ないくらいで丁度良いと、心得ている気遣いが本当に有難い。
本当にどこまでも出来たお姑である。
きっと、お姑には夫が経過報告を届けてくれている。
携帯に赤ちゃんの写真を収めたと言っていたから、それも送ってくれている筈だった。
「はぁ……身に染みる」
人の温かみに元気を貰い、頑張る気力を補給する。
窓から差し込む穏やかな陽光を眺めながら、私は自身が何だか植物になったような気がしていた。
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